日本の神様って、すごく働き者で、それぞれに役割があり、それぞれに輝いています。
天照大御神様は日本の総監督のような神様で、鹿島神宮は勝負運の神様というように、それぞれ持ち場というか、役割が決まっています。
神社に行って祓ってもらうこと
「穢れ」は目に見えません。
だから私は、定期的に神社に行って、穢れを祓ってもらうことをお勧めしています。
神社に行って神主さんのお祓いを受けなくても、神社にお参りするだけで5利益はあります。
神社にはご神木がありますが、木からいい気をもらうことができます。
たまに神社の石を持って帰ってくる人がいますが、これはやっていけません。
神社の鳥居の内側に結界が張られていて、そこにあるもの全てで調和が保たれています。
だから石一個といえども、持って帰ってきてはだめですし、草木も大切にしないといけません。
鳥居の中では草木や小さな虫までもがすべて調和の中で保たれています。
草木が育つと虫が来ます。
その虫を狙って鳥が集まります。
だから鳥居なのです。
それとよく「身内で不幸があったら神社に行ってはいけない」と言われますが、私は穢れを祓ってもらうために行ったほうがいいと思います。
ただその家の習わしや地域の風習などがあるので、四十九日までは控えるとか、臨機応変にすればいいのではないでしょうか。
それと神社といえば、大きなところ、有名な所に行った方がご利益がありそうに思いますが、必ずしもそうではありません。
例えば、伊勢神宮といえば日本で一番の神社ですから、さぞご利益がありそうに思いますよね。
だから多くの人が参拝しに行くわけですが、私は伊勢神宮に自分のお願いとか家族のお願いをしに行くのはどうかと思います。
それよりも、「おかげさまで、日本が平和で幸せに暮らしていきます」といったことを伝えに行きましょう。
自分のことや家族のことは、地元の氏神様に行くのが一番いいと思います。
よく、地元の氏神様には全然行かずに、大きな神社、有名な神社ばかりに行く人がいますが、観光ならいざ知らず、本当に神様を大切にする気持ちがあるのなら、まずは地元の神様を大切にしましょう。
また、お仏壇にお願いをする人もいますが、ご先祖様にお願いをするのもよくありません。
ご先祖様は、あなたのことをこのようにつないでくれた人です。
だから「おかげさまで健康に暮らしています」と報告したり、感謝したりするのです。
日本の神様って、すごく働き者で、それぞれに役割があり、それぞれに輝いています。
天照大御神様は日本の総監督のような神様で、鹿島神宮は勝負運の神様というように、それぞれ持ち場というか、役割が決まっています。
だから、自分の役割については得意ですが、苦手なこともあるのです。
神様が一番喜ぶことは何か
よく、「家にお仏壇はあったほうがいいですか?」と聞く人がいます。
もちろん、置けるに越したことはないのですが、置き場所に困るとか、そうした事情があるのなら、それを無理してまでおく必要はありません。
それよりも、先祖を敬う気持ちを日頃からも置く方が大事です。
それでもし置くとしても、高価で立派な仏壇を置く必要はないと私は思います。
それよりも、先祖を敬う気持ちが大切です。
それと、よく仏壇の中にいろんなものをたくさん並べる人がいますが、それはお勧めできません。
仏壇は棚ではないのです。
仏壇とはいわば、ご先祖様が眠るベッドです。
ベッドの上に物が色々と置かれていたら、ゆっくりと寝られませんよね。
「この人はお酒が好きだったから」とか「タバコが好きだったから」と好きな物を供えるのも、あまりそれをしすぎると、この世への未練を作ることになります。
ただ、それをやっているおばあちゃんとか、その人に対して「それ、やめな」というのではなく、自分がやらなければいいのです。
何より、そういうことでもめるのおご先祖様が一番嫌がります。
だから、お供えをする気持ちは大切にしつつ、ご先祖様にも自分にも、周りにも良い方法を選びましょう。
仏壇があっても、なくても、「ご先祖様、ありがとうございます」とか「今日も一日、頑張ります」と、一年にご先祖様を意識し、感謝することが大事です。
そして忘れていけないのは、あなたにとって一番身近なご先祖様はお父さん、お母さんです。
だからお父さん、お母さんがまだご存命なら、そのお父さん、お母さんを大切にするのが一番です。
ご先祖様って、どんどん辿っていくと、最終的には神様にたどり着きます。
だから、自分にとってすぐ上の両親に感謝すると、一番上の神様も喜ぶのです。
親が未熟な人で、あなたに対して嫌なことをしても、「この世に産んでくれたことはありがたいなぁ」と感謝する。
「大切にする」というと、「ずっと一緒にいないといけない」と思う人がいますが、一緒にいるだけが大切にすることではありません。
離れていても、「ありがたいな」と感謝することの方が大切です。
嫌なことをされたのを我慢してそこにいる必要はありません。
離れた方がお互いがよくわかる時もあるのです。
我慢して一緒にいて、それで喧嘩になったり争いごとが起きたりするよりも、お互いに距離を置き、冷静な気持ちで見るようにしましょう。
それと、一番の親孝行って「あなたが幸せになること」ですよ。
自分の代で整理した方が先祖は喜ぶ
「後継者がいない」とか「息子が会社を継いでくれない」と相談に来る社長さんが近年、増えています。
儲かっているのであれば、社内でいい人を選べばいいのですが、経営が苦しかったり、厳しいのであれば無理に継がせず、自分の代できちんと整理することも大切です。
会社の経営でも、「自分はこれがやりたいんだ!」と思って自分の財産を投じるのはいいですが、苦しみながらは間違いだから、やめたほうがいいと思います。
商売って、そのままの状態で長く続けられるものではありません。
常に時代にあったことをしていないと、どれだけ歴史のある老舗でも潰れてしまいます。
よく「自分の代で潰したらご先祖様に申し訳が立たない」とおっしゃるのですが、その人が頑張ったことはちゃんと、ご先祖様も見ています。
神様もちゃんと見ています。
お墓もそうです。
自分の代で終わらせてはだめだと苦しむよりも、ちゃんと「墓じまい」をするか、永大供養をした方がご先祖様も喜ぶんです。
宗教でよく「やめるとバチが当たる」と脅かす人がいます。
そんなところは絶対にやめたほうがいいです。
だって、神様はバチを当てたりはしません。
学びを与えることはあっても、やめたからといってバツを与えるようなことってないんです。
あなたはどの道を歩んでいるか?
「六道輪廻」という言葉があります。
これは、生前の行いによって生まれ変わる世界が決まることを表したもので、六道とは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を指します。
ただ、これは死後の世界だけではなく、今の生き方にも大きく関わることなのです。
私たちは前世の行いによって人間に生まれてきたわけですが、中には人間道を歩まず、修羅道を歩んでいる人がいます。
いつも他人と争う事ばかり起こしている人がそうです。
また、人間道を歩まずに、畜生道を歩んでいる人もいます。
自分の本能の赴くままに生きている人がそうです。
さらには人間でありながら餓鬼道、地獄道を歩んでいる人さえいます。
しかしその反面、この人生を楽しみながら、周りの人に優しくして、世間の役に立とうとしている人がいます。
まさに天道を歩んでる人です。
私たちは人間道にいながら修羅道にも行けるし、畜生道にも行けるし、餓鬼道にも行けるし、地獄道にも行けるけど、天道に上がることもできるのです。
そしてこの「天道」を歩む「天道目指す」ことをこそが欲を高めることであり、神様が求めている生き方なのです。
積み重ねたことが地獄にも天国にも通じる
よく「地獄って人殺しとか、よっぽど悪いことをした人が行くところでしょ」という人がいますが、そんなことはありません。
実際、ひとりさんもある時「俺の教えをたくさん学んでいる人でも、地獄に行く人はいるよ」って言ったことがあります。
どんな些細なことでも、その悪いことを続ければ「塵も積もれば山となる」式に悪いことが積もり積もって大きくなります。
どれだけスピリチュアルなことをたくさん学んでも、そのことで知らない人のことを馬鹿にしたり、傷つけるようなことを言ったりしている人は地獄道に向かっているようなものです。
それと同じように、天道に行くのも難しいことではありません。
天道に上がっていく時って楽しいんです。
周りから見たら大変そうに見えることでも、本人にはすごく楽しいもの。
逆に、地獄道に下がっている時は必ず苦しい。
周りから見たら「華やかだな」とか「楽しそうだな」と見えるかもしれませんが、本人の心はなぜか苦しかったり、虚しかったりしているのです。
だから苦しい時は「何かが間違っているんだ」という合図です。
それを先日、ある方に話しました。
するとその方は「自分は今の会社にいると苦しいんです。ということは、間違いなんですね」と言います。
そこで私はこう言いました。
「それは、会社にいることが間違いなんじゃなくて、会社で雇ってもらってちゃんとお給料もらっているのに、それで文句を言ってることが間違っているんだよ」
苦しい時はただ単に「行いが間違っている」とは限りません。
感謝すべき人や出来事に感謝せず、不平不満を言っていても苦しくなります。
苦しいことや問題が起こった時は、そのことで相手を責めるのではなく、自分を責めるのでもなく、そのことで感謝できること、何か学びになることを探すようにしましょう。
そうすれば、必ず天道に向かう道が見えてきますよ。
地獄をつくったのは神様ではない
地獄に行くような人が集まった場所を地獄と呼ぶのです。
不良のたまり場になっているようなところも、そこを作る時に不良のたまり場として作ったわけではないのと一緒ですね。
地獄の住人になるのも、最初はちょっとしたことから始まります。
人の悪口を言ったり、いじめたり、嫌がるようなことをしている人はもう、地獄に足を踏み入れています。
最初はちょっと出かけるくらいのつもりで行っても、ちょいちょい言っていると地獄の住人に「あんた、よく見るね」と言われて、「まぁ、お茶でも飲んで、ゆっくりしていきなよ」と誘われ、さらには「泊まっていきなよ」となって、最後には自分も地獄の住人になってしまうのです。
地獄にいると穢れます。
だから、何故か疲れます。
さらに良いことが聞けなくなり、見られなくなり、良い本も読めなくなります。
すると当然、起こる出来事も悪いことが続きます。
でも、悪い事が分かれば、いつでも止めることができます。
そうすれば、いつでも天道に向かうことができるのです。
神様は決して、大きなことを望んでいるのではありません。
目の前の自分にできることを望んでいます。
その、自分にできる小さなことの積み重ねで上に上がっていけばいいのです。
大切なのはそのことに「気づくこと」です。
地獄を作ったのは神様ではありませんが、「地獄があるということを分からせてくれる」のが神の愛なのです。
斉藤一人さんのお話を纏めました。
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