卒業までの我慢だと、耐えて、耐えて、耐えているうちに、自分が生きてるのか、死んでいるのか、わからなくなりました。
折れた翼
私が通っていた学校は、 私立の 小中一貫校でした。
家が貧しくて大学受験を諦めた過去を持つ父は、私を 中学まで この学校に通わせ、 高校は自分の出身校である 静岡県内屈指の進学校へ、さらに 卒業後は東京の某エリート大学へという計画を立てていました。
でも、私は 途中から「 中学は、絶対、公立」と決めていました。
そうすれば、 いじめっ子たちと縁が切れる、 いじめがなくなると思ったからです。
当時の私にとって、それが唯一、心の支えでもありました。
そして、 小学6年も終わりに近づいた頃。
学校で中東会の進級 申し込み用紙を渡されました。
この紙に保護者が署名・捺印すれば、無 試験で中等科へ進めます。
私は、両親の目の前に申し込み用紙を置き、 こう言いました。
「 小学校は、お父さん、お母さんの希望する学校に行ったけれど、 中学校は自分が希望する学校に行きたい。
公立の中学校に行かせてください」
慌てふためく 両親。
私は、学校でいじめられていたことを、 この時、初めて打ち明けました。
「 どうして、私たちに相談してくれなかったんだ」
二人とも相当 ショックを受けた様子。
しばらく言葉がありませんでした。
「 今まで黙ってて、ごめんなさい」
私がそう言うと、父は、
「謝るのはこっちの方だ。
裕子、 悪かったな。
公立の学校に行きなさい」
「 でも、 あなた、 公立中学の入学手続きは、もう終わってるんじゃ・・・・・・」
「 心配するな。 明日、 役場に行って、頼んでくるから大丈夫だ」
私は、
「 じゃあ、この申し込み用紙、 破棄します」
そう言って、紙を破り捨てました。
そして、春。
私は 念願の 地元・公立中学へ入学しました。
ところが、入学して間もなく、私は長期間 病欠することになりました。
背骨の曲がりが進行し、 手術せざるを得なくなってしまったのです。
手術は難易度の高いものになるとのこと。
通院していた病院は東京にある医大の分院で高度な手術に対応できないため、 私は最先端の設備が整った東京の 本院に入院することになりました。
手術 自体は成功だったのですが、 術後の合併症で呼吸ができなくなり、 集中治療室へ運ばれました。
危険な状態を出した後も、回復は一進一退。
私は病室のベッドの上で、1人、 不安と戦っていました。
ベッド脇のテーブルの上には、クラスメイトたちが送ってくれた、 励ましの手紙。
( この手紙のある主たちと、 いつになったら、本当の友達になれるんだろう)
そんなことを考えながら過ごした 入院生活でした。
そして、長い入院生活を終えて学校に戻り、 これからクラスのみんなと友達になろうと思った矢先、 父からこう言われました。
「 東京へ引っ越しするぞ」
父が言うには、東京にいる母方の伯父に「うちの会社の営業部長になってほしい」と頼まれた、とのこと。
そして、父は伯父の会社を手伝うために、自分の会社は共同経営者である親友に譲るということでした。
でも、本当はそうではありませんでした。
私の入院治療には、莫大なお金がかかりました。
そのお金を調達するために奔走していた父は、親友に「お金を出してやるから会社から手を引け」と言われ、会社を辞めさせられたのです。
大人になって、そのことを知りました。
私は、東京の区立中学に転校しました。
新しいクラスメイトたちは、すぐ私に近づいてきました。
( 今度こそ、友達ができそう・・・・・・)
しかし、 クラスメイトが私の近寄ってきたのは、私がコルセットをつけていたからでした。
骨の成長が止まるまで油断できないということで、 退院後も、 私はコルセットをつけていたのですが、 それがクラスメイトたちには物 珍しかったようです。
そして、私の動きが鈍いことがクラスに知れ渡ると、再び、 悪夢の日々。
ある男子生徒を中心にして、 ほぼ毎日、いじめが行われるようになりました。
私が しゃがむのに一苦労するのを知っているのにも関わらず、私の使う絵にぶつかったと見せかけて 机の上にあるものを落とし、
「 自分のものは自分で拾え」
と言われたり。
私の耳元で、鼓膜が破れるかと思うほどの、大きな音を出したり。
けれど、 この時も、 私は親に黙っていました。
( もう中学2年生なんだから、 自分で解決しよう)
そう思いました。
思ったものの、自分一人の力では、解決の糸口がつかめません。
担任の先生には相談できませんでした。
担任の先生は年配の男性で厳しそうな方だったので、 話しづらかったのです。
どうしようかと考えに考えて、頭に浮かんだのが、 普段から親切にしてもらっていた保健室の先生の顔でした。
( あの先生は優しいし、きっと、 親身になって話を聞いてくれるに違いない)
私は保健室を尋ね、 いじめを指導する男子生徒のことを相談してみました。
ところが、 信じていた先生から返ってきた言葉は、意外なものでした。
「 あの子の気持ちも考えてあげて」
先生が言うには、 その男子生徒は、両親が離婚し、 2番目のお母さんとは仲が悪くて家の中を揉め事が絶えず、 精神的に不安定なのだとか。
「自分ではどうにも処理できない イライラを、 芦川さんにぶつけているんだと思うの。
だから、あなたが我慢してあげて」
頼みの綱は、あっけなく 断ち切れてしまいました。
呆然として保険室を出た私。
教室に戻れば、私をサンドバック 代わりにする人たちが待っています。
私の足は、自然と屋上に向かいました。
( ここから落ちれば、楽になれるだろうな)
けれど、 勇気のない私は、飛び下りることはできませんでした。
(結局、 我慢するしかないんだ)
卒業までの我慢だと、耐えて、耐えて、耐えているうちに、自分が生きてるのか、死んでいるのか、わからなくなりました。
いじめているクラスメイトや先生たちへの怒り、 憎しみが、 かろうじて生きている証でした。
夕日が差し込む 店内。
そして沈黙。
「 今、病気はもう大丈夫かい?
学校でいじめられてないかい?」
一人さんが言いました。
「 中3でコルセットが外れました。
高校ではいじめはありません」
私がそう言うと、母が、
「でも、学校で友達ができないようなんです」
「 できないんじゃなくて、 私、一人がいいの。
外の人と一緒にいると、怖くて安心できない」
すると、一人さんが言いました。
「勝代さん、紙とペン、ありませんか?」
「2階にありますよ。
取ってきますから、 ちょっと待ってください」
斎藤一人さんの話を纏めました。
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