コンクラーベ

斉藤一人さんです

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斎藤一人さん 回想け────楽園の頃

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『我慢の人生』を続けていて、幸せになった人間はいない

 


回想け────楽園の頃


私は幼い頃、伊豆の韮山というところですがしました。

当時、母は専業主婦。

父は親友と二人で、地元で有料企業と言われる会社を経営していました。

1人娘の私は、両親の愛情を一身に受け、何不自由なく育てられました。

特に、父が私に向ける愛情、情熱は、波のものではありませんでした。

例えば、こんなエピソードがあります。

私が手術の小学校を受験するのに、願書を出しに学校へ行ったら、

「願書の受付は、先程、終了いたしました」

それを聞いた父は、

「試験も受けさせてもらえないなんて、裕子がかわいそうだ」

といい、すぐさま学校関係者に掛け合って願書を受理させてしまいました。

面接試験では、ほぼ父の独壇場です。

父のトークに、深く頷き、感嘆の声を上げる面接官。

試験の結果は「合格」です。

父が試験を受け、父が受かった、みたいなものでした。

受験以外でも、父は私のことに一生懸命でした。

「この子には、絶対に、幸せになってもらいたい」

その思いが、人一倍、いいえ、人の3倍も、4倍も強かったように思います。

それは、父が『男性版教えん』だったからなのでしょう。


子供の頃、近所に住んでいた祖父から父の昔の話を聞きました。

父が3歳の頃、いずれ旅館を営んでいた父親(私の祖父)が他界。

その直後に旅館は乗っ取られ、家も奪われた上に親戚中をたらい回しにされ、そのあげく、丁稚奉公に出され・・・・・・etc。

父はその半生で、この世のあらゆる辛酸をなめ尽くしてきました。

「だけど、お父さんは偉いよ。

1人ぼっちで寂しくても、どんなに辛いことがあっても我慢して、我慢して、一生懸命がんばったんだよ」。

苦労に耐え、0から立ち上げた会社を大きくした父は、かつて自分が欲しくてたまらなかったもの、けれど、諦めざるを得なかったものを全部、私に与えようとしていました。

その一方で、父は、私が物心つくか、つかない頃から、口癖のようにこう言っていました。

「我慢、我慢」

そのおかげなのか、私は我慢強い子供になっていました。

親戚のお兄ちゃんが、おもちゃを買ってもらえなくて、ぐずっていると、

「お兄ちゃん、我慢ね」

と諭すような子供でした。

そんな私を、周りの大人たちは称賛しました。

「裕子ちゃんは偉いね」と。


我慢は正しい───。

私はそう信じていました。

私が我慢すれば、その場が丸く収まって、みんな、ハッピーなんだと思っていました。

事実、私は、毎日が楽しくて、幸せでした。

仲のいい友達もいました。

学校の帰り道に友達の家に立ち寄り、時間が過ぎるのも忘れて遊んでいたこともあります。


「でも、そんな楽しい日々は、小学校4年までだった。私・・・」

一人さんは優しく微笑んでいました。

「大丈夫だよ、裕子ちゃん。思ったこと、言ってごらん」

「さっき、一人さんが言った、『我慢の人生』を続けていて、幸せになった人間はいないって、その通りだと思う。

だって、私がそうだから」



覚めない悪夢


あれは、私が小学4年の頃。

お風呂から上がって、バスタオルで体を拭いていた時のことです。

偶然、居合わせた母が、私の背中を見て言いました。

「裕子ちゃん、まっすぐ立ってごらんなさい。

気をつけの姿勢、してみて」

私は母の言う通りにしました。
「やっぱり、背骨がおかしいわ。

右肩と左肩の高さが違う、段差になってる・・・・・・。

明日、病院で診てもらいましょう」


大学病院で検査を受けたところ、「特発性側弯症」と診断されました。

特発性側弯症は、背骨がS字に曲がる原因不明の病気です。

「うーん。ひろこさんの背骨、かなり曲がっていますね。

ここまで曲がってるとは・・・・・・」

医師の言葉に、母は、

「先生、うちの娘、どうなっちゃうんでしょう」

「このまま曲がりが進行すると、手術で矯正するしかないのですが。

とりあえず、ミルウォーキーで矯正してみましょう。

これで、うまくいくかもしれません」

ちなみに、ミルウォーキーとは、首から腰までのコルセットのことです。

首から腰まで固定されるため、動きがかなり制限されます。

「お風呂に入る時以外は外しちゃダメですよ」

「寝る時は、いいですよね、先生」

私が尋ねると、医師は首を横に振り、

「大変だけど、がんばろう。

一生、ミルウォーキーをつけたままじゃないから。

背骨の成長がば止まれば、つけなくていいから。

それまでの我慢だ」


その半月後。

発注していたミルウォーキーができ、私はこれを身につけて学校に通い始めました。

前に屈んだり、後ろを振り返ったりできなくて、困ることが多々あったけれど、その都度、

「我慢、我慢」

自分に言い聞かせていました。

けれど、クラスメイトたちは、そんな事情を知りません。

背後から声をかけた時、私が後ろを振り返ることができないのを、「無視した」と捉えたようです。

「芦川さんって、生意気じゃない?」

「何様だと思ってんの、あの人」

クラスの一部の女子たちが固まって、私に聞こえるように言いました。

事情を説明すれば、誤解は解けると思いました。

ところが、説明したのが裏目に出てしまいました。

クラスのほぼ全員から、いじめの対象にされてしまったのです。

用もないのに、背後から声をかけ、

「芦川さん、聞こえてるんでしょ。

失礼ね、ちゃんと後ろ向きなさいよ」

「おい、偉そうにしてんなよ。

読んだ人の方を向いて話ししろよ」

罵声が飛んできます。

誰も私をかばってくれません。

仲良かった友達も、見てみないふり。

でも、しょうがない。

いじめられている人を庇うと、今度、かばった人がいじめの対象になってしまうのだから。

心ない言葉をは聞き流すことにしました。

自分が我慢すれば、そのうち、みんな飽きてやめるだろうと、思っていました。


ところが、今度、クラスメイトたちは、床の拭き掃除やトイレ掃除を押し付けてくるようになりました。

(いくらなんでもひどい!!)

先生は私にこんなことを言いました。

「いじめる側だけでなく、いじめられる側にも原因があるんだよ」

(あぁ、そうなんだ。じゃあ、私に原因があるんだ、私が悪いんだ。自分が我慢しなきゃいけないんだ)


そう思って、私はじっと耐えていました。

けれど、いじめは日増しにエスカレートしていきます。

私は仮病を使って、学校を休もうと考えたのですが・・・・・・。

「頭が痛いの。学校、休んでいいでしょう」

私がそう言うと、母は、私のおでこに額をつけ、

「熱がないから大丈夫よ。

学校に行って勉強してれば、そのうち治るわよ」

父も言います。

「あんまり学校休むと勉強が遅れて、後で、お前が苦労するんだよ。がんばって行ってきなさい」

私は、仮病を使うこともできませんでした。

諦めて、学校に通っているうちに、だんだん、本当に体の具合が悪くなってきました。

朝から体がだるかったり、頭が重く感じます。

私は黙って、学校に通い続けました。


一人さんは言いました。

「ご両親には、いじめのこと黙っていたんだね」

「はい、親に言えば、いじめがもっとエスカレートすると思ったので」

一人さんは、

「つらかったね」

私は頷き、そして、言いました。

「でも、ある日、クラスのみんなに、どなったことがあります。

『私のことをいじめて、何が面白いんだ!!』って。

みんな、たじろいでいました。

それで、一時、いじめがやんだんですけれど。

また、始まって。

それから卒業まで、ずっといじめは続きました」

 

 

斎藤一人さんの話を纏めました。

 

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