「和顔愛語」という言葉があります。
これは、仏教の教えの一つで、穏やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することなのだそうです。
Q 「愛」って、何だと思う?
なんだろう?(みっちゃん先生)
この前、ある人に聞いたの。
「誰かに愛というものを説明するとしたら、どう説明する?」って。
そしたら、その人はこう言ったんだよ。
「心の広さだと思う」
って。
もちろん、それも「愛」なんだよ。
人によって、「愛」の捉え方って違うんだよ。
みっちゃんはどうだい?
「愛」という言葉を聞いて、今、みっちゃんに思い浮かんだ事は何だった?
一人さん、私ね、最近、一人さんの『一日一語』(ぴあ)という本を開いたんです。
その時出てきた言葉を思い出しました。
「自分を愛して他人を愛します」
「私って偉いね。あなたって、偉いね。みんな、偉いね」
この二つでした。
みっちゃんの答えと、俺の答えは、ほぼ一緒だね。
いや、「これが答えだ!」って言う、答えはないんだよ。
俺は、これが一番近い答えじゃないかと思うのね。
もちろん、「一人さん、違うよ」っていう意見もあっていいんだよ。
何十年と生きてきた一人さんに出てきた結論だよ。
「愛」って、たぶん、これだろうと思うのはさ。
「親切」だよね。
自分に親切、他人に親切。
それが「愛」なんだ。
これは俺の人生では正解なんだよ。
一人さんは、あなたの人生の正解に近いものは数えてあげられるけど、これが絶対、という正解は俺には分からない。
追伸 人に親切にするということ
私はある日、なぜこんなにも私に親切にしてくれるのかを一人さんに尋ねてみました。
すると一人さんからこんな答えが返ってきました。
「自分では、そんな大したことをしてるつもりはないんだけどな。
だって、人に親切にするのは当たり前じゃない?
どこの親御さんも、学校の先生でも、子供に『人に親切にしなさい』って言うよね」
確かにその通りです。
私も「人には親切にしなさい」と言われて育った記憶があります。
そして私の子供たちにも同じことを言ってきました。
しかし、大人になってからは、人が他人に親切にする時は、何か裏があるのではないかと考えるようになりました。
また、人に親切にした時は、何か見返りを期待してしまう自分がいます。
私が思っている親切と、一人さんがやっている親切とはどこか違うようです。
私は更にそのことを尋ねてみました。
「親切って、親を切ると書くよね。
これは、親になり切るという意味なんだよ。
親は子供に対して見返りを求めたりはしないよね。
もし、子供が何か危険にさらされていたら、自分を犠牲にしてでも助けたいと思うよね。
これが親心というものなんだよ。
この親心になりきるのが親切ということなの。
そこで私はこういうふうに考えているの。
もし、子供が他人に対して親切にしているのを見たら、親は嬉しいよね。
それに親切にされた人の親も喜ぶ。
全ての人の親は天であり、神様だと私は思っているの。
子供である人が親切にされているのを見たら、親である神様は喜ぶよね。
それに神様は私にとっても親みたいな存在だから、親に喜んでもらおうと思って人に親切にするんだよ」
私のこの話を聞いて、ようやく一人さんが私に対して、なぜこんなにも親身になってくれるのかが分かりました。
親身というのは親の気持ちになって全てを受け入れる心であり、育む心なんだ。
そして単に許可する「許す」ではなく、慈愛に溢れた「赦す」心であり、待つ心なんだ。
そんなことを私は一人さんから教わることができました。
豊かさって何ですか?
なぜなら、人によって、「愛」とは何であるか、捉え方が違うんだよ。
みんな「愛」の表現の仕方も違うんだよ。
キリストにはキリストの、釈迦には釈迦の表現の仕方があるんだよ。
一人さんには一人さんの「愛」の表現があるんだよね。
答えが色々ある中から、自分が「これだ」と思ったものを選べるのが豊かさだよな。
「これが正しいから、自分はこれだけでいいんだ」
って、本当にこれが正しいとしても、豊かではないよな。
正解は、これ一個しかない、という考え方は、苦しいよな。
一人さんは以前、よくこんなことを言っていました。
一人さんのことが好きで集まってくれたみんなを、もっと自由に、のびのびとさせてあげたいんだ、って。
だって、人は幸せになるために生まれてきたんだよ。
人間は、何もしないで放っておくと、自分を不幸にする考えが浮かんじゃうんだよ。
その時、頭を切り替えられたら苦しまないで済むんだよ。
でも、ほとんどの人は頭を切り替えたくても、別の考えに切り替える材料を持っていないんだよ。
だから、よく「何々だから、こうなる」って言うじゃない?
例えば、「うちの子は英語ができないから、社会に出たら困る」とか。
「旦那の給料が安いから私はおしゃれができない」とか。
でも、「何々だから必ずこうなる」わけでは決してないよな。
何々だけどこうならないためにはどうしたらいいのか、を考えればいいんだよ。
本当におしゃれをしたいのなら、「私はおしゃれができる」に言い替えるの。
「給料は安いけど、私はおしゃれができる」って。
「私はできる」といったと同時に道が現れるんだよ。
おしゃれができる私になる道が見えてくるものなの。
今の時代は、リサイクルショップとか、「しまむら」みたいなお店もあるんだよね。
普段と違って、ちょっと押し出したいなって時は、ブランドものの洋服をレンタルしてくれるお店で、自分が「コレ」と思うものを借りることもできる。
自分の与えられた環境で、もっと楽しく、もっと豊かに生きられるんだよ。
「お金がないからできない」という問題ではないんだよ。
問題は、むしろ切り替えの材料が身近に多くあるのに見えない、ということ。
見えなくなっちゃうのはなぜかというと、心が閉じちゃってるからだよ。
「これが正しいから、自分はこれだけでいいんだ」とかって。
「これだけ」って思うと、心が閉じちゃうんだよ。
「これ」しか入らなくなっちゃうんだよ。
だから、「何々だから必ずこうなる」の「こうなった」ことばかり見えてきちゃって、「こうはならなかった」という事実が見えないんだよ。
ものが見える目があるのに「見えない」とか、聞こえる耳があるのに「聞こえない」とかって、昔の偉い人が言ったっていう話があるんだけどね。
それは、心が閉じちゃってるから。
だから、人は苦しんじゃうんだよ。
でも本当は・・・・・・。
みっちゃん、いきなりですが、ここでクイズです。
一人さんが問題を出すよ。
いいかい。
Q 「心の大きさ」って、どれくらいあるでしょうか?
ヒントを出してあげるね。
太陽を思い浮かべてみてごらん。
はい、思い浮かべました(みっちゃん先生)。
太陽を思い浮かべた、ということは、みっちゃんの心の中に太陽が入っていたんだよな。
みっちゃんの心は、太陽よりは大きいんだよ。
太陽がいくつも入るぐらい大きいの。
今晩、もし晴れてたら、夜空を見上げてみてごらん。
はい、やってみます。
ちなみに、それと心の大きさって、何があるんですか?
夜空を見上げると、その時自分が見渡せるだけの宇宙が見えるよね。
自分の視野に入ったと同時に、自分の心の中にも入っちゃうんだよ。
月から天の川から全部、入っちゃうんだよ。
満天の星を見ているんだとしたら、満天の星が入っちゃうぐらい心は大きいんだ。
心はもっとすごいんだよ。
人は、天体望遠鏡で見える範囲の宇宙よりも、うんと遠くにある宇宙を想像することもできちゃうんだよ。
宇宙の果てはどんなだろう、って思うこともできるんだよ。
この宇宙が最初にできてから138年経ったという説があるらしいんだよ。
宇宙の始まりを今、世界中の数学者、物理学者が想像しているんだよ。
そしたら今度、そんなことを想像している科学者たちのことを俺は思う。
心の中には138億年ものを宇宙の歴史がすっぽり入ったの同じなんだよ。
心って、どこまでも大きいんだ、って言いたいんだよ。
宇宙を想像しようが、しなかろうが関係ない。
人間の心というのは、元来、大きいの。
それを小さく扱っちゃうから、おかしなことになってくるんだよ。
臆病は「ダメ」ではなく、臆病なのに勇気を出そうとするのがダメ
「自分を小さく扱っている」というのは、どういうことですか、というとね。
例えば、みっちゃんは昔、自分は臆病でダメなんだ、って思ってたじゃない?
でも、俺が見たら、みっちゃんは臆病でも、弱い人でも何でもないんだよ。
みっちゃんは、優しくて思慮深いの。
わかるかい?
みっちゃんという、同じ一人の人間を「優しくて思慮深い」と捉えることができる。
「臆病」と捉えることもできるんだよ。
どっちの捉え方をするかで、全然、違っちゃうんだよ。
「あなたは優しくて、思慮深い人ですね」
といった時、言われたその人は自分に自信を持ちながら、自分に与えられたものを生かして幸せを育てていけるようになるんだよ。
それを、「臆病だからダメなんだ」ってマイナスに捉えると萎縮しちゃって、せっかくの長所も何もいかしようがないんだよ。
だから、一人さんは昔、私に「臆病はいいことだよ」って言ってくれていましたね。
臆病なことを「悪いことだ」と俺には思えないんだよ。
だってね、臆病なウサギは、しっかりと子孫を残してきているんだよね。
虎は強い動物だけど、絶滅しちゃうんじゃないかって心配されているんだよ。
臆病はいけないわけではないんだよ。
いけないのは、むしろ、、臆病な人が無理して強いふりしてね、虎に戦いを挑もうとすることだよ。
うさぎは、トラを見つけたら早く逃げればいいんだよ。
そのために、いち早く危険を察知できる長い耳を持っているんだよね。
臆病な人は、我が身に振りかかりそうな危険を事前に察知して、用心深く事を運ぼうとするんだよ。
転んで怪我をすることが少ないんだよね。
だから、臆病であることを、いい風に使えばいいんだよな。
あの時のことを思い出しました、一人さん。
一人さんの「愛語」を聞いて気持ちが軽くなって、お顔にパッと花が咲いちゃった。
みっちゃん、それは一人さんも同じなんだよ。
目の前にいる人のことを「愛語」で捉えるとね、一人さんの顔も「愛顔」なんだよ。
今のはどういう意味ですか?
それはね。
「和顔愛語」
「和顔愛語」という言葉があります。
これは、仏教の教えの一つで、穏やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することなのだそうです。
「和顔愛語」についての細かな決め事は、一人さんは作ろうとしません。
人それぞれが、その場、その場で、自分の目の前の人への「愛語」に心を尽くすことが心を磨き豊かにすることと、一人さんはお考えのようです。
ただ、一人さんを見ている限りにおいてなんですけれども、やはり「和顔愛語」と「愛顔愛語」は違うような気がするのです。
例えば、皆さん、お気づきかと思いますが、一人さんの「愛語」は臆病な私を慰めるためだけの言葉ではなかったのですね。
一人さんの「愛語」は、慰めの言葉の時も、もちろん、ありますけれど、それ以上に、私が自分を高め、心を豊かにする方向を示す光なのです。
私のものを与えられたものをい生かす捉え方はこうだよ、とか。
「あなただけでも幸せになってくれたらいい」
という優しさがあるのなら、その優しさを自分自身にも降り注いであげないといけないよ。
それが神様の願いだからね、とか。
一人さんの「愛語」によって私は、自分を大切にすることを覚え、自分が自分を大切にできないと他人を大切にすることはできないこともわかりました。
でも、やっぱり、今日の旅で一人さんから「愛語」のお話を聞けて、よかった。
「愛語」の奥深さを知ることができましたし、一人さんの「愛」の大きさも改めて感じました。
一人さんの声を思い出すたび、しあわせの涙が溢れ出してしまう私なのです。
斉藤一人さんのお話を纏めました。
皆様、いつもご精読ありがとう御座います。
www.youtube.com https://youtu.be/klr1U-tyJTI
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