だからこれからの時代は今を楽しんで、老後もさらに楽しむぐらいなことを考えていないと駄目な時代なんだよね。
- 今を楽しみ、老後もさらに楽しむ
- 楽しみがない人は、酸っぱいレモン汁を飲んでいるようなもの
- 平均台の上から降りてみる
- 実際に起きないことで悩むと体が壊れる
- 「悟り」とは差を取ること
- 追伸 「私は愛と光と忍耐です」って1日100回言うんです
今を楽しみ、老後もさらに楽しむ
なぜか人生がうまくいかない人の中には、休むことや遊ぶことに罪悪感を持っている人がいます。
そういう人は、楽しむことが悪いことだと思っているんです。
確かに昔は「勤勉さ」や「寝る間も惜しんで仕事をする」ことが美徳とされていました。
江戸から京都までの東海道五十三次を約2週間かけて歩いて行っていた時の江戸時代の常識と、東京から大阪2時間半も新幹線で行ける現代の常識とでは違います。
昔は「人生五十年」って言われていましたが、今は七十歳、八十歳はざらなんです。
それこそ、昔と比べれば倍の年月を生きる人はたくさんいるよね。
そうなると、昔なら「この人生も終わりかな」っていう時に、今なら「これからまた、もう一生分を生きられる」って事になるの。
夫婦でも、昔と変わらない同じ考えだと飽きちゃって、関係に退屈さを感じてしまいます。
それと仕事もそうだけど、遊びも急には遊べません。
筋肉と同じで 、使わないと衰えるんです。
中庭、会社を定年退職して「時間ができたから、さぁ、遊びなさい」となっても、何を遊んでいいかさえ分からない人もいるよね。
だからこれからの時代は今を楽しんで、老後もさらに楽しむぐらいなことを考えていないと駄目な時代なんだよね。
「 できるようになったらやる」じゃなくて「やれる時にやる」。
いくつになっても仕事も遊びも楽しもうよ。
楽しみがない人は、酸っぱいレモン汁を飲んでいるようなもの
「大丈夫なんだ」ということが分かって受け止めることができると、いきなり自分の才能に気づく人が出てきます。
そうすると、その活かし方も分かって可能性もグンと広がり、人生がもっとキラキラと輝きだすんです。
自信が持てたら、後は、なんでもいいから「自分のやりたいこと」とか「自分の好きなこと」など、楽しいことをいっぱい考えて、それを実現させる方法を実行するんです。
この「自分のやりたいこと」や「自分の好きなこと」をするのって、例えるならレモン汁に砂糖を入れるようなもの。
すっぱいレモン汁はそのままで飲めないけれど、水や砂糖を水や炭酸で割ってそこに砂糖を入れたら美味しいレモンジュースができるよね。
それと同じで、人生も、何か楽しみを見つけると仕事でも趣味で「がんばろう!」って思えるようになります。
仕事が大変でも、休みの日に楽しみが待っていたら、その大変さが軽減されるんだよね。
自分が「楽しい」って思えればいいんです。
おしゃれをしたい人なら服代、旅行に行きたい人なら旅行代がかかります。
絵を描くのが好きな人なら、描くのはタダでも画材が必要です。
素敵な服を買うためなら、年に一回ハワイに行くためなら、週に1回絵を描くためなら、辛い仕事も頑張れるんです。
働くのって、結局は自分の欲望を満足させるための手段なんだよね。
「月に1万円のお小遣いの中で、毎日一杯飲むのが楽しみなんだ」って言う、その楽しみのために仕事をがんばれます。
これが逆に「仕事をがんばるために、一杯飲んで気晴らしをしている」って言うと、全く話は違ってくるよね 。
おしゃれをするために仕事をしている。
旅行に行くために仕事をしている。
一杯飲むために仕事をしている。
絵を描くために仕事をしている。
そうすると、仕事も「楽しみの一環」になるんです。
楽しいことが人生にない人は「すっぱい、すっぱい」って言いながらレモン汁を飲んでいるようなものなんです。
自分の可能性を広げるのって、結局は自分自身なんだよね。
美味しいレモンジュースをつくりなよ。
平均台の上から降りてみる
私たちって、「平均台の上を歩かないといけない」と勝手に思い込んでるみたいなものです。
だから不安定ですし、「落ちたらどうしよう」と心配になります。
でも平均台から降りても問題なんてありませんし、逆にその方が安定していて、安心です。
そこには、いろんな道が広がっていて、たくさんの選択肢がある 。
決して「これじゃないとダメ」ということはありません。
自分が決めた道を行くと、そこに自分の新しい道が拓けるんです。
そしてその後ろにも道ができています。
誰かが通った道を行くのもいいけれど、実は誰もいない道を行ったほうが競争がないから楽なんだよ。
一見、たくさんの人がいる道の方が正しいように思うけど、人にはそれぞれ、進むべき道というものがあります。
自分が「この道を行きたい」と心から思ってワクワクするのなら、それがたとえ茨の道であっても、その人にとってはバラ色の道なんだよね。
逆に自分がこの道を通ってよかったからといって、その道を子供や他人に強制するのは良くありません。
とにかく親に言われたり、先生や周りに言われて、知らず知らずに身についた思い込みを一度捨ててみてください。
そうすれば身も心も軽くなり、目の前に素晴らしい可能性が広がっていることに気づけるのです。
ゆらゆら危なっかしく平均台の上を歩くより、思いっきり降りてみな。
視界がぱっと広がるからね。
実際に起きないことで悩むと体が壊れる
悩みや心配事がある時って「大丈夫だ」とは思えないよね。
そんな時はまず、その悩みや心配ごとに対して、少しでもいいから自分が対処出来る事を考え、行動してみるんです。
もし経済的な不安があるのなら、ちょっとずつでもお金を貯めるとか、健康に不安があるなら、体にいいものを摂るようにするとか。
それで 、実際に起きていないことをあれこれ悩んだり、心配したりする人がいるんだけど、これって凄く良くないんだよ。
どんな車でも、「空ぶかし」をしすぎると壊れてしまいます。
アクセルというのは負荷がかかった状態ならいいんだけど、負荷がない状態でアクセルを踏み続けるとエンジンが壊れるんです。
例えば、2トン の荷物を積める車に4トンの荷物を載せて車を走ることはできます。
でも、何も負荷のかかっていない状態、つまりギアがニュートラルになっている状態でフルにアクセルを踏み続けるとエンジンが壊れてしまいます。
人が実際に起きてないことを想像で思い悩むのは、これと同じことなんです。
例えば、あなたの目の前に梅干しが山ほどあって、それを一つずつ食べることを想像してみてください。
どうですか?
実際に梅干しを食べていないのに、口の中に唾液が広がりましたよね?
つまり「思い」は必ず身体に影響を与えます。
実際に起こってないことでも不安を持つと、身体には交感神経の働きを高める物質の脳内ホルモンが分泌されて、血管が収縮するんです。
同時に筋肉も硬直して、血の巡りも悪くなるの。
血液は身体の細胞に栄養を運び、同時に老廃物を持って帰るという作業をしてくれます。
これが、筋肉が硬直すると出来なくなってしまうんです。
それで、悪いところ、弱いところにその毒がたまり、それが病気の原因になってしまうことがあるんだよ。
日露戦争の時に、二百三高地のような零下何度という寒さの場所で、寝ないで撃ち合いをしても、多くの人はそれが原因で病気になることはありませんでした。
それぐらい人間の体は丈夫に作られているのに、実際に起こってないことで身体に負荷をかけ続けてると、人の体は壊れてしまうからね。
想像力はもっといいことに使いなよ。
とにかく自分が幸せになるイメージ。
そのためにできることをやるんだよ。
「悟り」とは差を取ること
人が悩んだり、心配して不安な気持ちになったりするのも、これも一つの能力です。
だから、その悩みや心配、不安に対して具体的に対処してみるの。
それで、 悩みや心配はいっそのこと放っておくんです。
すると、いつのまにかその心配や不安ってなくなっているものです。
自分でやれることを精一杯やっていると、周りの人や、時間や運など、いろんなものが味方して解決してくれます。
実際、1年前に悩んでいた事や心配していたことを思い出せる人って、ほとんどいないでしょう。
「悟り」というのは、悩んだり心配しなくなることではありません。
悩みや心配事があっても、それでも「大丈夫だ」と思える心を「悟り」というのです。
差を取ることなんだよね。
相手も人間で、自分も同じ人間なんだ。
能力に差があるのは、それぞれ目的が違うからなんだ。
一人ひとりの課題に差はあっても、同じように魂を成長させようとがんばっているということに差はありません。
そうやって相手との能力や姿や肌の色や使う言葉の違いなど、様々な差を取って、お互いの魂や命の尊さを知ることが、本当の「悟り」なんです。
いつだって大丈夫だと思える事こそが本当の「悟り」なんだよね。
悩みや心配事があっても「大丈夫、大丈夫」って真剣に思ってみな。
追伸 「私は愛と光と忍耐です」って1日100回言うんです
私はこの頃よく、「神様って、愛と光と忍耐でできている」って、言っているんです。
神様は、愛と光と忍耐なんです。
それで、私たちの中には、針の先ほどの、神様の分け御霊が宿っている。
だから、みんなも「私は愛と光と忍耐です」って言ってごらんって。
大抵の場合、「私は愛と光と忍耐です」って、1日100回ずつずっと言ってると、気分が悪くなってくる。
濁った水の中に、きれいな水を落とすと、濁り水が外へ出るんです。
溢れでるのは濁り水だから、愛とか、光とか、忍耐って言葉に拒否反応を起こす人が出てくる。
だけど、心の中にないことは、ずっとは言えないから、1日100回、10日間言ってると、4日目から5日かで、いいずらいのが治ってくるんです。
もちろん、最初から言える人もいるんですよ。
物事って、一人一人の因果で起きるから、何が起きるか分からないんです。
で、起きた現象を、今までは自分の意見で処理していたんです。
それから、起きた現象に対して、「私が愛と光と忍耐だとすると、どうやって答えるだろうか」って考えるようになると、今までと違う状況が現れてくるんです。
私からこういう話を聞くことを「知る」と言います。
起きた現象に対して、今まで「馬鹿野郎」とかって言っていたところを、「私が愛と光と忍耐だとしたら、どうするか」で、答えを出すようになる。
これを「経験する」って言うんです。
経験すると「自分が何者かが分かる」んです。
これを「悟りの三原則」って言うんです。
斉藤一人さんのお話を纏めました。
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