本物に接して味覚センサーを磨こう
本物がニセモノで、ニセモノが本物!?
ところで、センサーが鈍っているのは感覚だけではありません。
最近では、困ったことに「味のわからない」子供たちが増えているようなのです。
一番わかりやすい例が、「だし」。
色々調べてみると、お味噌汁の出汁を鰹節から引いたことがないというお母さんが、とても多いようなんですね。
そのお母さんの子供は、生まれてからずっと、インスタントのカツオ出ししか飲んだことがない。
そういう子には、天然だしのお味噌汁を飲ませると、必ずこう言います。
「味がしない」。
つまり、天然のものに対する味覚のセンサーが育っていないんです。
だから、「何これ? 味がしないお湯みたい。まずい」って、それこそまずいですよね?
本物に出会ったことがないから、価値基準を自分の舌に持っていない。
そういう子供たちにとっては、天然だしが偽物で、インスタントだしが本物というわけです。
これは、だしに限ったことではなく、ポテトでといえば「細くて揚げてあるもの」だと思って育った子は、ふかし芋は「ボソボソする」と文句を言うし、普段、カップラーメンばかり食べている子は、化学調味料を使っていないラーメンを食べる、「味が薄い」となってしまう。
やはり、ある程度本物に接していない限りは育ちようがないんですよ。
センサーって。
もし、自分のお子さんがちゃんとしたものを食べた時に、「これはおかしい」って言ったら、親としてはちょっと反省すべきだと思います。
私が子育てしていた頃は、それこそ目が回るほど忙しかったのですが、出汁だけは天然にこだわっていました。
いつでも使えるように、かつおだしと昆布出汁を別々にとって、製氷皿に入れて冷凍しておくのです。
でも、たまに切れてしまって、ごまかして粉末を使うと、飲んだ瞬間、子供たちに言われるんですね。
「今日は、化学調味料だね」って。
うちは孫までそっくりなようで、3歳まで天然だししか使わなかったところ、たまにパックの出汁を使おうものなら、「今日は、うちのお味噌汁じゃないでしょう」と言うそうです。
味噌を変えたわけではないのに、舌が覚えているんですね。
「人間、習い性になる」という言葉がありますが、化学調味料を使った味の濃いものばかりを食べている人は、そちらが正しいという認識になってしまうのです。
ですから、味覚のセンサーを元に戻そうとするなら、意識的に天然のものに接して、天然のものになれる期間というのが必要になると思います。
この間もテレビで、だしが何も入っていないお味噌汁と、天然だしが入ったお味噌汁と飲み比べて、お味噌汁をといただけのお味噌汁の方が「美味しい」という若い人がいましたが、天然の鰹から取れるアミノ酸をまずいと感じるというのは、かなり危険なことです。
人の体は約6割が水、約2割がタンパク質でできていますが、筋肉や内臓、血中のヘモグロビン、髪や皮膚のコラーゲンなど、体の重要な組織であるタンパク質を構成しているのがアミノ酸なのですから。
とにかく、まずは天然だしを口にしてみましょう。
自分の波動を変える時には、「あなた変ね」と言われる時間が必要なように、味覚のセンサーを変えるためにも時間が必要なのです。
それでも、波動を変えるよりはよっぽど楽ですから、体のセンサーをリセットするためにも、味覚から始めてみるのもいいかもしれませんよ。
最初はまずいと思っても、1週間から10日もあれば、センサーはかなり正常化します。
脳に本物の味を覚えさせるのに10日はちょっと難しいですが、化学調味料が口に入った時に、少なくとも「何かおかしい」と、感じるようになるはずです。
本物を感じるセンサーは、誰もが持っているはず
私も、昔はよく食べていました。
確かに、カップラーメンやファーストフード、コンビニのおにぎりって、味が濃くて美味しいですよね。
化学調味料の強烈な味というのは、そもそもセンサーが触れやすいというか、反応しやすい分、天然の味より覚えやすいのです。
本物を感じるセンサーは、遺伝子的に誰にでも備わっていますが、そのセンサーが、「化学調味料大好き」センサーに囲われてしまっているような状態です。
だから、つい天然のものより化学調味料の方が選んでしまう。
ただし、気をつけないと、そういうものの摂り過ぎはやはり体に良くないのです。
こうした味の背景には、時代性もあるのかなと思います。
今の時代というのは、簡単で分かりやすいことが求められていますから、もしかしたら、味もその弊害の一つなのかもしれません。
これを、文学作品に例えるとよくわかると思うのですが、国語の時間に読解力テストをやると、内容を読みきれない子が多いと聞きます。
若い人でもそうです。
味わいのある作品というのは、読んでもわからないという人が半分以上だそうです。
読解力がないと、せっかくの文学作品の持ち味がわからない。
食べ物で言えば、味覚のセンサーが壊れて栄養が吸収できないのと同じです。
心のざわめきとか戸惑い、細かな感情の機微を描き出せば出すほど、行間を読むということが必要になると思うのですが、そうなると、若い人には「難しい本」ということになるのでしょうね。
それで、ドラマチックなストーリーとかコミックのように、極端に言えば「想像力を膨らませなくても分かりやすい」ものの方へ傾いてしまっているのだと思うのです。
言葉の中から感情を引っ張り出したり、探り当てたりという動作が、みんな下手になっている。
話を元に戻せば、文学と同じように、野菜の中の甘みは苦味を探し当てられない人たちが増えているんだと思います。
普段、行列で単純なものばかり食べているから、探すという動作をしたことがない。
野菜がどんなに甘いか、知らない人の方が多いでしょう。
実際、化学調味料が入ると、その味にしかならないのです。
だから、探りようがなくなってしまうんですね。
試しに、生のほうれん草をそのまま食べてみてください。
甘みも、苦味も、匂いも、シャキシャキシャキという歯ごたえも、いろいろな要素が組み合わさって食べ物ができているということがよくわかると思います。
感覚や味覚のセンサーが働かないと、人もモノも味も、うわべだけしか見られなくなります。
でも、これは若い人に限ったことではなく、歳をとっても同じなのです。
やっぱり正常なセンサーが働かなくなっている人が多いですから、どうしても上辺しかわからない。
人間関係だってそうです。
言葉上で感じるしかありません。
そういう大人は、言葉の奥にあるものを見抜けないから、電話がかかってきて「オレオレ」と言われてもわからないのです。
簡単で分かりやすいものばかりを求めない
斎藤一人さんの話を纏めました。
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