こんにちは、アシスタントのメロンです。人に言うことに過剰に反応してしまって、すぐに疲れるんです。
それで、メロンちゃんは何を聞きたいんですか?
過剰に反応しないようにする方法を教えて欲しいんです。
今回は他人の言葉に、どうして過剰に落ち込んでしまうのか?そういうことについて、私の思うことをつらつらと述べたいと思います。
HSP
HSPとは、Highly Sensitive Personの略で、アメリカの心理学者、エレイン・N・アーロン博士が提唱した概念です。
この「HSP」を提唱した経緯は、アーロン博士自身がこの「とても敏感な人」であるHSPで、自身の敏感さと生きづらさを研究しようとしたことが始まりです。
アーロン博士は研究のために同じような内面的な特徴を持つ人たちを調べて観察したところ、人種や性別・年齢などに関係なく、どの国の人でも一定の割合でこのような「とても敏感な人」がいることをつきとめました。
そしてさらに、HSPは環境や性格などの後天的なものではなく、先天的な気質、つまり生まれ持った性質であることが分かったのです。
刺激に敏感
人から注意されたり、指摘されたりすると、やけに落ち込んだりする人が、いてたりするんです。
次はこうした方がいい。
次はここのところを注意した方が良い。
その人のために良かれと思って、前向きな注意、アドバイスレベルだったとしても、注意された方は、これで自分がおしまいなんだと感じたりするんです。
やっぱり自分のことをわかってくれない。
すごい辱めを受けた。
こんな恥ずかしい思いをするのであれば、死んだ方がマシなんです。
そんなふうに考えてしまって、何もかもが嫌になってしまい、本当に人生の終わりだくらいに、落ち込んでしまって、陥ってしまう場合が、あったりするわけなんです。
私自身も三十歳過ぎぐらいまでは、死にたいまではいきませんが、周りから見れば、そんなことで落ち込まなくて良いでしょう。
そういうレベルだったんです。
しかし当の私は、本当に生きるか死ぬか、会社を辞めるか続けるか、そういう大問題だったりするわけなんです。
人から指摘されると、傷つくのが分かっていますから、それが怖いからこそ、誰からも指摘されないように、人一倍残業もして、いろんな勉強をして、仕事をしているふりをしています。
そうやって頑張るんですが、その反面、内心はビクビクしているんです。
いつか言われるのではないか、いつかバレるのではないか、おどおどしている自分がいて、苦しかったなと、今思い返すと、そんな気もしています。
これは単純に、劣等感が強すぎるからなんです。
強すぎるからなんですね。
それだからこそ、過剰に人から、常に自分にとっては、プラスになっているような話だったとしても、変な方向で過剰に反応してるんです。
反応するのはある程度分かるとしても、どうして、そこまで傷ついて落ち込んでしまうのか?
もうだめだと反応してしまうんです。
幼い頃、すごく小さなこと、今思えばどうでもいいようなことでも、親からチクチク責められるんですね。
場合によっては、殴る蹴るとか、そういうこともあったりするんです。
そういった経験が体に沁みついていますから、頭ではなく体に沁みついてしまってるんです。
例えば職場で上司の方から、責めてるわけではなく前向きな注意、された瞬間に、頭では分かってると思うんです。
頭では自分のことをこき下ろしてるわけではなく、ちゃんとした指導をしてくれているんだな。
頭ではわかっていても、体が反応してしまうんです。
体が、「やられた」という風に反応してしまうんです。
そういうことが起きていると思っています。
実際に何かあると、過剰に反応して、過剰に落ち込んでしまう。
そういう方によくよく話を聞いてみると、例えば家族の中で、形は家族なんですが、自分の居場所一度も感じられなかった人もいてるんです。
隔離状態的なそんな状態で暮らしていたとか、何かと親から拒絶されてしまう環境で育ってきたとか。
あるいは完全無欠な状態、ミスひとつ許されない状況とかです。
そういうことを過度に要求される状態です。
親の機嫌を損ねるようなことを瞬間に、親が暴力的なことをしてくるとか、あるいは無視するとか、激しく叱責するとかです。
人格を否定的な叱責をされてしまうとか、辱めを受けるとか、そこまで行かなかったにしても、やけに機嫌が悪くなるんです。
「申し訳ないな。親に迷惑かけてしまったな。」
そういうふうに思わせるくらい、激しく表情とか顔色に出してしまうんです。
そういう嫌な環境の中で生きてきた。
そういう経験のある方は、体に染みついているのではないかと思っています。
自己否定
実際にそうした環境の中で、びくびくおどおどしながら、相手の顔色を伺って、サバイバルしているような状況でいると、やはりちょっとした一言でも、「やられたな」
そういうふうにダメージを受けてしまうんです。
いつも来るぞと身構えている時に、そういう状況が来ると、「やられたな」と感じられると思うんですね。
過去にもし人格を否定されるような経験をしたのであれば、何かと、過去に起きた出来事と今起きている出来事を結びつけるんです。
絶対これは人格を否定されたんだと、リンクさせてしまうんです。
過去に拒絶された。
すごい拒絶された経験をお持ちの方は、ちょっとした注意やアドバイスだったにしても、これを拒絶されたんだとして、そちらの方にリンクするんです。
見られたくない部分、弱みとかを見られたということは、もう普通には付き合えないというふうに思うんです。
どんどん自分で落ち込んでいくんです。
そういう環境で生きてこられたのであれば、自然の流れかと思ったりもするんです。
罪悪感とかが、すごく強くなっていくと、全く自分に非がなかったにしても、自分は最低最悪な子供で、親の方は無理をして、自分を育ててくれているんだと思うんです。
親が悪くない、自分が悪いという方向で、考えて行ったりするんです。
考えてる間に、それが体に沁み付いて行くんです。
何かあるたびに、「申し訳ないな、申し訳ないな」
また迷惑かけてしまった。
だから頭ではわかってたにしても、認知の状態でわかっていたにしても、あるいは認知の状態で変えようとしたにしても、体に沁み付いているんです。
体に沁み付いたものを、それ自体を取り外しておくんです。
それをしておかないと、なかなかその状態から変われなくなるんです。
取り外す方法
共感
それではどのようにすれば、この体に沁み付いたものを、きれいさっぱりというか、取り外せるのかというと、やはり何はなくとも、当時の心の傷みたいなところに、今一緒に共感してくれる人。
傷ついた心に寄り添ってくれる人。
そういう人に対して素直に、その時言えなかったような感情とか、考えとかをさらけ出すとかというか、ぶちまけるんです。
そういう作業が必要でないかと思っています。
そこに勇気を出すということです。
自分の内側をさらけ出すということに、勇気を出すということをしてもらえれば良いと思います。
どうして勇気を出さなければいけないかというと、劣等感とかを強く持っていると、その劣等感の反動形成で、自分のことを過剰に見せようとするんです。
本音
そっちの方に頑張って努力するんですね。
なので、自分の本音をどんどん隠していくのです。
逆に自分の本音、弱い自の本音を隠して、強がりな自分をどんどん見せようとするんです。
本当は心がポキッと折れそうで、限界まで達しているのに、「大丈夫です。そんなのできますから。わかってますから」
そういう方向に頑張ってたりするんです。
そういう本音を隠して、建前で作られた自分の方でコミュニケーションをしていると、残念ながら周りの人も、本気になって話を聞こうとはしないんです。
そうすると、いつまでたっても、心の傷が癒えることはないんです。
最後に
自分の中にある情けない自分の本音を、誰かに本当にストレートに言えることができた時、この心の傷も癒えていくのではないかと思っています。
実際に情けなかった自分の心の傷、過去の心の傷みたいなところに、理解とか共感とかを示してくれる人がいるだけで、いるという安心感だけで、過常に自分を強く見せなくても、もう大丈夫なんだ。
そういうふうにうっすらと感じられるようになってきます。
うっすらと感じていくプロセスが、体に沁み付いてしまった。
「やられてしまった」
そういう失敗の恐怖を、ゆっくりとはがしていくんです。
そういうことに役立つのではないかと思っています。
今回は、どうして他人の注意とか何か一言で、過剰に反応して、過剰に落ち込んでしまうのだろうか。
それでそれに対してどうすれば良いのだろう。
いかがでしたでしょうか、そういうことについて、今思っていることを、お話ししてみました。最後までお付き合い頂いて、有り難う御座いました。
最後までお付き合い頂いて、有り難う御座いました。
皆様、いつもご精読ありがとう御座います。
お手数ですが、遠慮なさらずに押して欲しいんです。