お前の好きにしていいよ
一人さんと離れる
東京に来てから2年の月日が流れ、一人さんの話がようやく理解できるようになり、もっともっと一人さんの話を聞きたい、もっともっと成長したいと思い出した頃、私にさらなる試練が待ち構えていたのです。
私は専門学校卒業して、先物取引の会社に入りました。
当時はバブル絶頂期で、受けた会社は全部受かるといった感じだったのです。
中でも私が先物取引の会社を選んだのは、単に給料が良いからでした。
まだまだお金に飢えていたのです。
私は就職と同時に「第一桝岡荘」を離れ、会社の寮に引っ越しました。
初めて世間に出た私は、数字に追われ、一人さんやお弟子さんたちに会うことができず、一般的な社会の考えに揉まれ、元の考え方に戻りそうでした。
環境って怖いですよね。
しかし、私はその先物取引の会社を1年でやめ、はなゑ社長のお兄さんが勤めていた会社に勤めることになり、そこでまた「第1桝岡荘」に戻ったのですが、時期を同じくして、はなゑ社長や他の社長さんたちも次々と一人さんの仕事を手伝うようになり、ますます一人さんやお弟子さんたちに会えなくなっていきました。
結婚を機に再び「第1桝岡荘」を離れた私は、さらなる物質的な豊かさを求めて、給料の良い訪問販売の会社に入りました。
そこでは1台033万8000円の外国製掃除機を売っていました。
歩合性で、ノルマを達成すると50万円くらいの給料がもらえ、良い時には80万円くらいの給料をもらっていました。
しかし、訪問販売の仕事は何があり、いい時ばかりではありません。
ノルマを達成できない月もあり、ダメな時は10万円くらいしかもらえない時もありました。
成績が上がっている時は良いのですが、落ちてくると心まですさんできます。
そしていつしか私は一人さんの教えを忘れ、人生最大の失敗をしてしまいます。
人生で一番後悔していること
私は3人兄弟の長男で、2つ下の弟と、10歳下の弟がいます。
末っ子の直樹は歳も離れているせいか、私にはとっても可愛い弟です。
ある日、母が私に電話をしてきて、「直樹が高校を辞めたいって言っている」と言うのです。
私は一時的な気の迷いだろうと思い、気分転換も兼ねて直樹を東京に呼びました。
そこでちょっとした東京見物をした後、一緒に食事をしながら、なぜ学校を辞めたいのか聞きました。
すると直樹は、「学校がつまらない。
それよりもプロのドラマーになるためにアルバイトをしながらドラムの修行をしたい」というのです。
それを聞いた私は、「プロの世界はとても厳しいし、それに社会はそんなに甘いところじゃない。
高校ぐらいは出ていないと絶対、苦労するぞ。
だからがんばって卒業しろ」と一般的な話をしました。
私に心配をかけたくなかったのか、直樹は私の言うことを素直に聞いて、「分かった。じゃあ、学校に行くよ。
そして、がんばって卒業するよ」と言ってくれました。
そんなある日、学校帰りに直樹はバイクで事故を起こしました。
一命はとりとめたものの、事故の後遺症で右手が全く動かなくなっていました。
何度も手術をしましたが、お医者さんからも、一生、右手の機能が戻ることはないだろうと言われたのです。
プロのドラマを夢見ていた直樹にとって、それは死刑宣告に等しいことだったと思います。
将来の夢を断たれ、自暴自棄になった直樹は、何度も命をたとうとしたそうです。
父や母、弟の懸命な説得や励ましで思いとどまるようになったものの、右手が動かないことで仕事につけず、次第に家に引きこもるようになり、自分のからに閉じこもっていきました。
今だったら、「お前の好きにしていいよ。あんちゃんがいるから大丈夫だよ」って言えたのに・・・・・・。
一人さんの考えから離れてしまった、あの時を私は後悔していました。
斎藤一人さんの話を纏めました。
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