自分の犠牲になっている子供の顔を見て、喜ぶ親はいません。
また子供の犠牲になっている親の顔を見て、傷つかない子供はいません。
「がんばる」を「顔晴る」と考えると、うまくいきます!
あなたは、自分より人の幸せを優先することが美しい、と考えているかもしれません。
ところが、そうではないのです。
まず、自分が幸せにならなければ、人を幸せにすることはできません。
持っていないものを、どうやって人にあげることができるでしょう。
あなたが「なりたい自分」になるということが、あなたが幸せになることです。
人は幸せになるために生まれてきて、それができれば、人に幸せがいっぱいあげられるのです。
「なりたい自分」を主張すると、人の幸せを優先する 美徳に反してしまう、そんな恐れは捨ててください。
自分に無理して、自分を犠牲にして、人の幸せを優先するなんて、そんなことは美徳ではありません。
そんなことをして、本当に「誰か」が幸せになれるとしたら、その「誰かさん」は、よほど鈍感な人。
だって、「なりたいもの」を我慢したあなたの顔が、曇っていることに気がつかない。
そして、あなたは、「顔晴る」、その様子 こそが、その「誰か」にとって、元気をくれるということがわからないのですから。
いいえ、 一番 鈍感なのは、あなた自身かもしれません。
昔の私も、人の幸せを優先することが正しいことだと信じていました。
自分を犠牲にしないと、周りに幸せをあげることはできないと考えていました。
2人姉妹の長女として生まれた私は、父の会社を継いで行かなければならない立場でした。
私はその期待に答えようとして、心のどこかで、親のために働いている、という思いがありました。
働きたくて働いているのに、どうしても気持ちが晴れることがなかったのは、私が自分を犠牲にして働いていたからです。
今にして思えば、そんな考えで働いていた 私は、社長に対して、とっても失礼でした。
命がけで商売をしているそのそばで、
「私はあなたの犠牲になって働いています」
という人間を見たら、いい気分になるわけがありません。
あなたは、周りの人を不幸にしたくないという。
でも、誰かの犠牲になっているあなたの暗い顔を見て、誰が喜んでくれますか。
周りの人を不幸にするのは、犠牲になっているあなたです。
人の親というものは、いつも子供が幸せであることを願っています。
自分の犠牲になっている子供の顔を見て、喜ぶ親はいません。
また子供の犠牲になっている親の顔を見て、傷つかない子供はありません。
そんなことをしたら、
「親を自分の犠牲にしてしまうなんて••••。
自分は生まれてこなければよかったんだ」
と、自分を愛することができない人になってしまいます。
また、子供にとって、
「お母さんはあなたのために○○してあげているのよ」
という言葉ほど、重荷に感じるものはありません。
「そんなこと、誰が頼んだの」
と、子供に言われるのがおち。
多分、あなたも子供の時に、親に言ったことがあるんじゃないですか。
「愛する人のために私は我慢している」という、眼差しは、お互いの心を閉ざしています。
愛は遠ざかってしまいます。
人の犠牲になって、幸せになれると思ったら大間違いなのです。
ひとりさんから教わりました。
「自分が幸せになることで、少なくとも、この世から不幸な人間が一人減る」
不幸なことが顔が一つなくなれば、みんなの心の重荷が一つ 軽くなります。
まず、あなたが生き生きすることが、あなたの愛する人たちを幸せにします。
斎藤一人さんの話を纏めました。
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