母の愛を知らず、過酷な環境で育った私。
18歳で娘を生み、シングルマザーに。
一人さんの教えと、お姉さんの励ましで
父の介護も子育ても、全て乗り越えられた!
拝啓、一人さん
母
お姉さんと初めて逢った時のこと。
その瞬間を、私は今でも、はっきりと覚えています。
「一人さんのお姉さんに一目逢いたい・・・・・・」
ずっと、そう思い続けてきた私。
成東のお店に着いた瞬間、嬉しくて、嬉しくて、高鳴る胸を押さえながらドアを開けました。
「まあ、いらっしゃい!」
店の奥から、私は包み込むような笑顔で出てきてくれたお姉さんの顔を見たとき、私の胸には、強烈な思いがこみ上げてきました。
あったかくて、愛おしくて・・・・・・。
初めて逢ったとは思えないような懐かしい気持ち・・・・・・。
私は思わず
「お母さん!」
と叫んで、抱きついて泣いてしまったのです。
「・・・・・・」。
私は、自分の口から出た言葉に驚きました。
でも、お姉さんはもっと驚いたに違いありません。
それでもお姉さんは、私を両手でしっかり抱きしめて、私も背中を優しくさすってくれました。
私が叫んだ
「お母さん」
という言葉。
この言葉を、普通に言える人が、どんなに羨ましかったか・・・・・・。
それは私の生まれ育った環境にありました。
父
私には、母の記憶がほとんどありません。
両親は、私が3歳の時に離婚をしました。
父と祖父母の中で、私は6歳まで育ちました。
父は鉄工所を経営していましたが、私が小学校1年生の時に、事業に行き詰まり、倒産してしまいました。
多額の借金を背負い、家は差し押さえられてしまいました。
タンスや本棚など、家中の家具に「赤い札」が貼られているような光景を、私は未だに覚えています。
がっくりと肩を落としている大人たちの様子を見て、何か尋常ではないことが起こったのだと、幼い私は理解しました。
祖父母は親戚の家に行くことになり、その時に、「この子も一緒に親戚の家へ連れて行く・・・・・・」という話も出たそうです。
でも父は「この子は俺が育てる。この子と離れ離れになりたくない・・・・・・」と譲らなかったのだとか。
結局、私は父と二人だけで、山奥の古い民家に移り住みました。
父は手っ取り早くお金を稼ぐために、長距離トラックの運転手になりました。
一度遠方に出かけると、父は一週間も家に戻って来られなくなります。
小学1年生の子供が、大きい古い家の中で、ひとりぼっちで何日も過ごすのは、想像を絶する寂しさでした。
食事も、冷蔵庫にあるものを温めて、一人で食べる気力などなくなってしまいます。
それでもお腹は空くので、スナック菓子やパンを食べて、父が帰るまで何とか食べ繋ぎました。
お風呂も一人で沸かして入る気にならず、父が帰ってこない間は、ほとんど入らない生活。
学校も家からうんと離れていたので、どうしても行く気になりません。
「なぜ、私一人が、こんなに寂しい思いをするの?」
「なぜ、おじいちゃんやおばあちゃんと離れてくださなきゃいけないの?」
「お父さんはどうして帰ってこないの?」
「なぜ私には、お母さんがいないの?」
私の心の中は、いつも、そんな言葉で溢れかえっていました。
あまりの寂しさから吐き気がして、食べたものは吐いてしまったり、原因の分からない高熱が出ることもありました。
どんなに私が体調が悪くても、気づいてくれる人は、誰一人いません。
父が帰ってくるまで、私は、一人で孤独と戦うしかありませんでした。
そんな生活が2年続き、私は小学3年生になりました。
その頃、父は行きつけの飲み屋のママから、
「このままではあの子がかわいそうよ。お母さんの代わりになってくれる人を作らなきゃね」
と、父より少し若い女の人を紹介してもらいました。
その女性は、私のことをかわいがってくれて、ご飯を作ってくれたり、女子らしい小物をプレゼントしてくれたりしました。
私は初めて「お母さん代わり」ができた嬉しさで、女性の家に移り住み、3人で暮らすことになりました。
やっと「孤独地獄」から救われた私。
3人での暮らしは、最初は順調でしたが、ひとつだけ、とても嫌なことがありました。
それは、父がいない時に、「知らないおじさん」が部屋にやってくること。
その女性はスナックで働いていたので、そこのお客さんだったのかもしれませんが、子供心に「お姉ちゃんには、お父さんがいるのに・・・・・。どうして別の男の人をお家にあげるの?」という疑問がありました。
ある日、父と二人きりになった時に、「お父さんがいない時に、知らないおじさんが来ているよ」と話してしまったのです。
父はその時は黙って聞いていましたが、その一週間後、父が突然「ここを出て行くから、荷物をまとめなさい」と言い出しました。
結局、「お母さん代わり」のお姉ちゃんとそれっきりになってしまいました。
こうして、私はまたしても、父と二人きりの生活が始まりました。
父は父なりに、父親としての愛情を注いでくれたと思います。
借金を返しながら、男手ひとつで幼い私を育てるというのは、大変なことだったと思うのです。
それでも・・・・・・。
お金にだらしがなく、気が回らないところがありました。
お金が入ってきたら、入ってきただけ、後先のことを考えずに使ってしまいます。
冬至、給食費や教材費を封筒に入れて、学校に持って行かなければならなかったのですが、父に言うと「今お金がない・・・・・・」。
いつも私一人が提出できず、先生から「何時頃持って来られそうかな?」と遠慮がちに催促されるのが常でした。
学校に着ていく洋服も、知り合いの子供の「お下がり」をもらっていたので、服のデザインや描かれているキャラクターが一昔前のものでした。
私の家庭の事情を知らない同級生は、「それ、流行おくれだよね」「なんで流行りの服を着ないの?」と遠慮なく行ってきます。
下着もごくたまにしか買ってもらえなかったので、身体検査などで、着古した下着姿になるのが、とても嫌でした。
たまに友人の家に遊びに行くと、当然のように、お母さんがあったかいご飯を作ってくれて、お風呂が準備されています。
夜寝る時は、お布団もちゃんと敷いてあって、女の子らしいパジャマも準備されてあって・・・・・・。
お母さんが「おやすみ」と笑顔で微笑んでくれる。
そんな光景がたまらなく羨ましく、自分の置かれた環境と比べてしまうのでした。
そんなことが重なり、ほとんど学校にも行かなくなってしまいました。
彼
私が小学校を卒業する頃、父は家賃を滞納し、夜逃げのような形で、別の町へと移り住みました。
私は中学生になりましたが、その頃の暮らしはどん底そのもの。
電気・ガス・水道・電話が全て止められて、真冬だというのに、お風呂場に行くんである冷水で震えながら髪を洗うような生活でした。
家が貧しいことと、母のいない寂しさをはらすように、私は夜中に遊び歩くようになりました。
私の遊び仲間は、やはり片親だったり、恵まれない家庭の子がほとんどで、それがかえって私には、居心地の良さを感じました。
みんなお金がないので、ラブホテルの一室に大勢で雑魚寝したり、駅の待合室で肩を寄せ合って野宿をしたり・・・・・・。
中学卒業後、高校にも行きましたが、結局1ヶ月で中退。
その頃、私には、7歳年上の彼氏ができました。
彼氏は札付きのワルで、シンナーを売ったり、バイクの無免許運転をして警察に捕まりそうになり、逃げている途中で私と知り合ったのです。
彼と付き合うようになって数ヶ月後、彼の家に警察がやってきて、逮捕状を見せられました。
結局、彼は刑務所で2年間服役することになりました。
私は大きなショックを受けましたが、「はじめて愛した男性が、社会復帰するために、頑張って構成しているのだから、彼を支えながら待とう・・・・・・」と思い、美容院で働きながら、面会に行ったり、手紙を書いたり、彼が刑務所から出てくるのを待ちました。
そして服役を終えた彼と再会し、私は18歳で彼の子供を身ごもったのです。
子供
子供ができたことを機に、私たちは籍を入れました。
私のお腹が日に日に大きくなっていきましたが、当時の私には大きな悩みがありました。
それは、彼が働かないこと。
前科があり、なかなか就職が決まらなかった彼は、父親の仕事を手伝っていたのですが、すぐに父親と衝突して、職場を出てきてしまうのです。
そして何日も仕事に行かず、家でゴロゴロしている姿を見ると、「一体この先、どうやって子供を育てていくつもりなんだろう?:と腹立たしさと不安は増すばかりでした。
その頃の生活費は、彼がパチンコで撮ってくるお金だけ。
そんな中、私は女の子を出産しました。
彼も子供が生まれたことは喜んでくれましたが、私と子供を置いて、どこかに行ってしまいます。
私の貯金は底をつき、子供のミルクやオムツさえ、買うお金がなくなってしまいました。
結局、友人に頭を下げてお金を借り、子供にミルクを買いましたが、本当に情けなく、子供が不憫でたまりませんでした。
私たちの生活を見るに見かねた父親が、少しばかりの生活費を援助してくれるようになりました。
しばらくすると、私のお財布から、いつのまにかお札が何枚かに抜き取られていることに気がつきました。
彼に問いただすと、「パチンコするお金を借りたんだよ。これを元金にして、もっと稼いできてやるからさ・・・・・・」。
私と彼は激しい口論となり、いきり立った彼は私に手をあげました。
それからというもの、彼にお金を盗まれても、殴られるのが怖くて、我慢するようになってしまいました。
ある日、私の親戚のおばさんから「お子さんへ、現金書留でお祝いを送ったからね」と連絡がありました。
おばさんの気持ちが本当に嬉しくて、心待ちしていたのですが、その「お祝い」はいつまでたっても届きません。。
おばさんに確認すると、「えっ、もうとっくに送ったよ」との答え。
私はハッとしました。
彼に聞くと「お祝いなんて、受け取っていない」との一点張りでしたが、私は郵便局に電話をかけて、配達してくれた人にまで確かめました。
「間違いなく〇月〇日にお宅に配達しました。男の人に渡しましたよ」という答え。
もう彼に間違いありません。
結局、問いただすと、遊びのお金使ってしまったと白状しました。
私のお金だけならまだしも、子供の「お祝い」にまで手をつけるなんて・・・・・・。
もう我慢ができませんでした。
「もう別れたい・・・・・・。この家から出て行って」
私がそう告げると、彼は「お前と別れるのはいいけれど、子供は絶対、渡さないぞ・・・・・・・」と言うのです。
結局、彼と私は家裁で争うことになりました。
シングルマザー
裁判では勝利し、私はシングルマザーとして、子供と二人でやるに直すことになりました。
女手一つで育てた子供が小学校高学年になった頃、私は子宮内膜症を患い、病院に入院することになりました。
その時に、同室だった人が、「この本、面白いよ」とかしてくれたのが斎藤一人さんの本でした。
私はそれまで、子育てと仕事に追われ、ゆっくり本を読む時間すらありませんでした。
少しずつページをめくっていくと、とてもわかりやすくて、面白い教えが書いてあります。
その中で、私が釘付けになったページがありました。
それは
「自分が幸せになると、どんな親にも感謝できる」
という教えです。
「人間って、本当に幸せになると、親に感謝できるんです。
幸せって、何か特別なことじゃないんだよ。
今日、天気が良くて、幸せなだなあ・・・・・・・・とか。
可愛い花を見て、幸せだなあ・・・・・・とか。
ご飯が食べられて、幸せだなあ・・・・・・とか。
そういう普通のことに感謝できるようになると、
『ああ、親に産んでもらって、よかったなあ』
と思えてくるんです。
どんな親であっても、そう思えてくるんです。
ズバリ言うけど、親に文句を言う人の特徴は、いま自分が「不幸せ」なんです。
不幸だ、不幸だ、と言っているうちに、『俺はこんな事もしてくれなかった・・・・・・』『あんなこともしてくれなかった・・・・・・』って思い出してくるんです。
だから、そういう人は、自分が幸せになる考え方、幸せになる努力をもっとしなきゃいけない。
自分が幸せになった時に、親ってありがたいなあ・・・・・・と必ず思うものですよ。
それがバロメーターだと思ってください。
どこの親も、完璧じゃないんです。
あなたもきっと親になれば分かります」
「・・・・・・」。
私はハッとしました。
幼い頃から、「私には、なんでお母さんがいないんだろう・・・・・・」とか、「父のおかげで、私はずっと苦労してきた・・・・・・」とか、ずっと両親のことを恨みがましく思ってきました。
でも、本当は・・・・・・。
私自身が、幸せになる努力をすることが、足りなかったのかしれない・・・・・・・。
そう思えてきたのです。
それからというもの、一冊ずつ斎藤一人さんの本を揃えて行き、一人さんの教えを学んでいました。
読めば読むほど、人はどんな状況であったとしても、考え方次第で幸せになれるということが、よくわかってきました。
あるとき本の後ろのページを見ていると、一人さんのお姉さんが、千葉の成東でお店をやっていらっしゃることを知りました。
「一人さんのお姉さんって、一体、どんな方なのかしら? 一目お逢いしてみたい」
そう思った私は、成東のお店を訪ねることにしたのです。
一人さんのお姉さん
お姉さんに初めて逢った時に、なぜ「お母さん!」と言ってしまったのか、未だに分かりません。
お姉さんは、どんな人にも親切で、世話好きで、困った人を見ると放っておけない人。
そう、「母性」を強く感じさせる女性なのです。
特に、母の愛情に飢えていた私は、お姉さんが放っている「母性」を、一瞬にして感じ取ったのかもしれません。
私の生い立ちをお姉さんに話すと、お姉さんは涙を流しながら聞いてくれました。
そして「よく頑張ったね。でも、もう大丈夫。こうやって一人さんの教えを実践し始めたのだから。これからあなたは今までの分も、うんと幸せになれるんだよ」と言ってくれました。
それからというのも、私はことあるごとに、お姉さんに手紙を書きました。
私の今の状況のすべてを、お姉さんに聞いて欲しかったのです。
「今日は父と娘と3人で、久しぶりに食卓を囲みました。メニューはお姉さんから教わったサーモンのマリネ。魚が大好物の娘は、『今まで食べた鮭の中で一番美味しい!』と大絶賛でした。こんな楽しい時間が持てたことに感謝です」
「最近、子供を産んで本当に良かったな・・・・・・と何度も何度も思います。私の子供を与えてくれた彼にも、感謝できるようになりました」
日常の小さな気付きや成長を、お姉さんにただ聞いてもらえるだけで、私は満足でした。
その頃一緒に暮らしていた父が、脳梗塞の発作がひどくなって、入院することになりました。
私は仕事と、父の介護と、子育ての三つに追われる日々になりました。
以前だったら、父が入院したことに対して、「またしても困難が起こった・・・・・」と受け止めていたことでしょう。
でも私はお姉さんから、
「起こることはすべて、自分の魂を成長させるために起きているのよ」
そう教えてもらっていたので、この生活も何かきっと意味があるはず、と前向きに受け止めました。
また介護を長く経験されてきたお姉さんに、「病人を動かす時のコツ」や、「上手な身体の拭き方」など、実践的なことも丁寧に教えてもらい、それが、父の介護にとても役立ちました。
娘が中学に入り、思春期になると、度々学校に呼び出されることもありました。
なんでも派手な靴下を履いて行ったり、授業中にお菓子を食べていたり、放課後に友人たちと酒を飲んで騒いでいたこともあったとか。
こういう時、母親として、娘に同棲していいか悩んだこともありましたが、お姉さんに、
「子供は親に『信じているよ』という言葉を言われるのが一番嬉しいのよ」
と教えてもらっていたので、娘にも、「お母さんはあんたを信じているよ」と言い続けました。
父親のこと、子育てのことで、何か壁にぶつかると、私はいつもお姉さんに励まされて、乗り切ってきたのです。
お姉さんの暖かさをいつも感じていたくて、家中のいたるところに、お姉さんの写真を貼り、自分の気持ちが萎えそうになると、お姉さんの笑顔の写真を見て、元気をもらいました。
そして今年の6月。
父がこの世を去りました。
お姉さんの励ましもあり、最後の日まで、感謝の気持ちで父に尽くせたので、悔いのない別れになったと思います。
そして、父の死後、衝撃的な事実がわかりました。
父の保険の受取人が、私の「生みの母」になっていて、保険会社の人のリサーチで、母の居場所がわかったのです。
母は精神は病んで、精神病院に入院しているとのことでした。
幼い頃、あれほどまでに「逢いたい! 逢いたい!」と思ってきた生みの母。。
その母の居場所が、今になってわかったというのは、何か大きな意味のあることだと思いました。
それでも・・・・・・。
30年ぶりに母に逢うのは、非常に勇気がいることでした。
心の迷いを断ち切るように、私は部屋に飾ってある、お姉さんの写真に話しかけました。
「やっぱり・・・・・・。母に逢いに行って、生んでもらったお礼を言ってきますね」
私は自分を奮い立たせて、精神病院へと向かいました。
病院のベッドに寝ていた母は、背丈がうんと小さくなり、ゆっくりでないと話せない様子でしたが、「本当にあなたなの?」と言い、嬉しそうに微笑みました。
私は、母の手を握りながら、念願だったこの言葉を伝えました。
「お母さん、私は生んでくれて、ありがとう。
私は今本当に幸せです」
心のお母さん
病院の帰り道、どうしてもお姉さんの声が聴きたくなって、私はお姉さんに電話をしていました。
「そう、あなた、えらかった、・・・・・・」
涙ぐんでいるようなお姉さんの声を聴きながら、私はずっとおねえさんに伝えたかった自分の気持ちを話しました。
「私、お姉さんのことを『心のお母さん』だと思っています。
父の介護を頑張れたのも、子育ての悩みを乗り越えられたのも、生みの母に逢いに行けた
のも・・・・・・。
そう、過去の全てを許せたのも、お姉さんの励ましがあったから。
『成東に、心のお母さんがいる!』
そう思うだけで、この先、何が起こっても、恐くない。
お姉さんがいてくれるから・・・・・・。
私は何が起こっても、乗り越えることができるんです」
敬具
斉藤一人さんのお話を纏めました。
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