大事なことは、子供の頃から癖をつけておくのが一番なんだから
「それで、元は取れるのかい」
私は、斎藤一人さんの弟子です。
子供の頃から「小俣のかんちゃん」って呼んで可愛がってもらい、一人さんとの付き合いは20年以上になります。
付き合いと言っても、私の方から一方的にくっついていくわけで、迷惑をかけるばかりの不肖の弟子です。
この間、私は、あんまり立派なかんちゃんではありませんでした。
学生時代はドロップアウトし、一人さんが始めた「銀座まるかん」の代理店「78パーセント」に入社してからも同僚ともめるは、暴走して大損するわ。
その度に一人さんの言葉に助けられ、少々、出入りの激しい状況を繰り返してきました。
未だに、自分の人生はぐるぐると回っているような気がするのですが、それでも仕事を変えたいとか、別の生きがいを見つけたとか、思ったことはありません。
一人さんが作る「まるかん」の商品を売るのが好きだからです。
商人として生きるのが好きなのです。
私の実家は魚屋でしたから、少しは私にも商人の血というやつが流れているとは思いますが、商売は面白いと本気で思うようになった原点には、やはり斎藤一人さんの存在がありました。
一人さんに直接商いを教えてもらったお姉さんの中で、私は多分、最年少の記録保持者ではないかと思います。
初めて商いをしたのは八歳の時でした。
家では鮮魚の他に海産物の加工、販売をしていましたから、冬休みの間、そのイカやらタコやらをライトバンに積んで売る露天商になったのです。
その時、手取り足取り教えてくれたのが一人さんでした。
あの斎藤一人が八歳の小僧に、細々といろはを教えてくれたんですよ。
大人になって思い出せばなおのこと、その記憶は私の密かな宝物になっています。
小学生が一人で、イカやタコを売る。
今なら学校の先生がすっとんできそうですが、私の子供の時代、特に生まれ育った東京・江戸川区の松島というところは何かとおおらかな下町で、小学生にもちゃんと商売をさせてくれました。
それまでも、ひとりさんのことはよく知っていました。
というより「青汁のおじさん」は私の恩人です。
私は小さい頃からアトピー性皮膚炎に悩まされていたのですが、一人さん特製の青汁で見事に治っていたからです。
一人さんの家と私の家はそう遠くないところにあり、松島には共通の車工場となる喫茶店がありました。
土曜日の昼、学校から帰ってくると、実家の魚屋が忙しい母は、私を連れて喫茶店にお昼ご飯を食べに行くのを習慣にしていました。
その喫茶店に、不思議な男性客がいたのです。
何が不思議かと言って、昼間からいつも本ばかり読んでいるのです。
どう見ても私達よりずっと前に来ていて、私たちが店を出た後もまだ読んでいる。
大人のくせに昼間から働かないとは、なんて人だ。
いつも忙しくしている両親しか知らない私には、不可解でなりませんでした。
働かないのにスカッとした服を着ているし、乗っている車はかっこいい。
子供心にもお金はあるらしいのは分かりますから、のんきに何もしない人が何でお金持ちなんだと、ますます不思議に思えたのです。
ところが本を読み、物知りな人ですから、喫茶店の中で自然と一人さんを中心に話の輪ができ、ひとりさん目当てに客が集まるようになりました。
ここに集まった常連客や店のマスターが、やがて私たちまるかんの仕事をする者の間で「斎藤一人10人の弟子」と呼ばれる大幹部のうちの8人なのです。
下町の普通のおじちゃん、おばちゃんが、当時は、まあ、普通のお兄さん、お姉さんだったろう人たちが、ひとりさんと出会って大化けすることになるのです。
私の母・小俣和美も、そんな常連客の一人でした。
「一人さん、いる!?」
そう言って店に入っていくと、
「いるよぉ」
本から顔を上げて、一人さんはいつもニコニコ笑いかけてくれました。
目鼻立ちのはっきりした、黒い髪のリチャード・ギアという感じなんですが、笑うとふんわりやわらかい笑顔になるのです。
こっちまで嬉しくなるような、何とも言えない幸せそうな笑顔が、いつも待っていてくれました。
「一人さん、いる!?」
「いるよぉ」
今でも、私と一人さんの関係はこれなんだと思います。
困った時、教えて欲しい時、訪ねて行けばひとりさんは必ずそこにいてくれます。
必ず答えてくれるのです。
他愛のない世間話から、身の上相談、仕事のなやみ、生き方論まで、一人さんを中心とした輪の中で話されることは様々だったといいます。
私にははっきりした記憶はないのですが、母も家業のことで一人さんに相談にのってもらっていたそうです。
祖父が始めた魚屋は、まともに行けば私が三代目になるはずでした。
しかし、祖父は私に継がせる気はなく、「これからは資格の時代だ!」が口癖でした。
好きで始めた仕事ではなかったようで、祖父にとっては魚屋は食べるための手段。
「商売はしんどいもの」だったのです。
将来は医者か弁護士に。
私に対する期待は、インテリ路線でした。
両親も迷っていたのでしょう。
二代目を継ぐ以上、どうやって店を盛り上げていこうか頭を悩ませているのに、じいさんは「商売はもういい」と言う。
「孫には資格だ!」と言う。
私の将来に対する漠然とした期待の連れは、ピアノ、という奇妙な形となって現れていました。
少なくとも私からピアノを習いたいと言った記憶はなく、医者や弁護士の資格とピアノを習うことがどこでどう結びついたのか、今となっては誰も覚えていないのですが、とにかく、私はピアノを習っていたのです。
ある日、いつものように喫茶店に行くと、私のピアノの話になりました。
すると、一人さんが、こう言ったのです。
「それで、元は取れるのかい」
最初、母は、何を言われているのかわかりませんでし。
「おまっちゃんさあ」
小俣なので、一人さんは母のことを叫びます。
「おまっちゃんさ、かんちゃんは商人のせがれだろ。
将来サラリーマンにしようって言うならいいけど、商人にする気なら元を取れないことをやってもダメだよ。
元を取るっていう感覚は、商人にはすごく大事なことだからね。
どんなに小さな店だって、一人でやるにしたって、商人というのは経営者なんだよ。
もし『元を取れなくてもしょうがないよね』なんて平気で思っている経営者がいたら大変だよ。
仕入先に『ごめん、ちょっと元取れなかったから支払いできないわ』なんて言えるかい。
『元取れない分、給料引いちゃうね』なんて言われたら、従業員は路頭に迷うだろ。自分だけの問題じゃないんだ。
結局、周りの人みんなに迷惑をかけてしまうことになるんだよ。
この子を将来、商人にする気が少しでもあるなら、早いに越したことはない。
現場で売り買いの経験をさせた方がいいよ。
現場で覚えるのが一番だから。
こういう大事なことは、子供の頃から癖をつけておくのが一番なんだからさ」
損か得か
一人さんは、よく「損か得か」という話をします。
「損か得かという考え方で考えると、いろんなことがわかりやすく見えてくるんだよ。
損得勘定と言うと、何でも金に換算するのかと言って嫌がる人がいるけど、同じことだよ。
人の気持ちになって嬉しいとか、しまったとか、損か得かという感情はあるだろう。
要は、考え方のことを言ってるんだよ」
納得できるのかできないのか、様々な場面で損か得かという言葉に置き換えていくと、曖昧だったことが明快になって見えてくるのです。
「元を取る」という考えも、これと同じです。
魚屋の息子がピアノを弾いたって、もちろん構わないわけですが、モーツァルト弾けるようになると魚の鮮度がわかるようになる、という話は聞いたことがありません。
魚の鮮度を見分けるなどは、まさに場数、経験がものを言いますから、早く覚えるに越したことはないのです。
魚屋の仕事で考えれば、ピアノを習うことに費やすお金や時間はあまり得な投資とは言えないでしょう。
家業を継ぐ可能性があるなら、今から仕事の実際を経験しておく方が得ではないか。
一人さんは、私に売り買いをさせてみてはどうか、と勧めたのです。
母は、衝撃を受けていました。
将来、私は魚屋にするかどうかは別として、子育てに「元を取る」という発想が必要だとは、思ってもみなかったからです。
子育てで元を取るというのは、子供をどう育てていくかということです。
それはつまり、母自身の生き方を考えさせることだったに違いありません。
母に直接聞いたことはありませんが、あの時、母は自分の人生そのものにも思い至ったのではないかと思います。
なぜなら、その後ほどなくして、母自身が人生を大変換させていったからです。
ただ、その時の母は「やってみる?」と聞いただけでした。
私はといえば、「元を取る」ということの意味も、うるさいというのは何をすることなのかも、よくわかっていませんでした。
ただ、ひとりさんがニコニコと私を見ていましたから、きっと何か面白いことが起きるに違いないと思ったのです。
「うん、やる」
私の意思を確認するや、母の動きは迅速でした。
2、3日だけだからと、じいさんを説得し、父に商品の準備を頼みました。
父は子供でも扱える加工品を選び、店開きの場所も探してくれました。
小学3年生の冬休み、私は、商人になったのです。
どうしたらお客さんに喜んでもらえるのかな
いやぁ、面白かったです。
初めての商売は、それはそれはエキサイティングでした。
「売れたら、商売ほど面白いものはない」と言いますが、とにかく売れたのです。
お客様が次から次へと集まってくる、何よりもお客様が喜んでくれる、それでお金が入ってくるのです。
面白くないわけがありません。
子供にとっては一種のゲーム感覚で、私は夢中になりました。
父父がライトバンで連れて行ってくれたのは、近所の駐車場の空きスペースでした。
商品は、我が家の味付けタコと一夜干しのイカ。
父は車から荷物を降ろすとキーを抜き、ドアを開いたままにして、自分のも店に戻って行きました。
「がんばれよ、お前の店だ」
そうです、このライトバンは、私が初めて持った店なのです。
駐車場では、一人さんが待っていてくれました。
開店準備です。
商品を入れてきた発泡スチロールは、ひっくり返せば即席の陳列棚になりました。
お客さんに見えやすいように、下に板を入れて少し傾斜をつけ、商品を並べていきます。
次は値段。
身近にあるものは何でも使います。
車の中にあったダンボールを崩して、値札にしました。
「いいかい、こういうのは大きく書けよ。
どんなお客様にもよく見えるように大きくだ」
「一皿 175円」
大きく書きました。
すると、一人さんがこんなことを言いました。
「なあ、かんちゃん、この味付けタコは、うまいのかな?」
今更何を言うんだ、と思いました。
うちのタコやイカが美味しいのは、一人さんだって食べて、よく知っているはずです。
「美味しいよ」
「何でわかるんだよ!?」
しつこく聞くのです。
「だって、うちで食べてるじゃないか」
「そりゃ、かんちゃんは食べてるんだろうけどさ、食べたことのないお客様だって、いっぱいいるんじゃないか?」
言われてみれば、確かにそうでした。
「どうしたら、お客様に美味しいってわかってもらえるのかな」
「・・・・・・」
両親はどうやっていたのか、思い出そうにも思い出せません。
そのはずです。
我が家の店の手伝いなど、私はしたことがなかったからです。
もうやけくそでした。
「食べてもらったら、美味しいってわかるよ」
「そうだ。
こういうのは、味をみないとお客様は買ってくれないんだよ。
美味しそうだと思って買ったのに、後で食べたら美味しくなかったなんてことになったら、お客様、怒っちゃうだろう。
お客様がちゃんと気に入って、喜んで買ってくれる商売と言うんだよ」
我が家のイカやタコは、うまいと評判の商品です。
でも、それを知ってもらうサンプルが必要でした。
味見用に、母にタコを小さく切ってくれるように頼み、私はそれをさす爪楊枝を取りに家に走っていました。
「かんちゃんさ、お釣りは大丈夫かい?」
手提げ金庫に、母が用意してくれた小銭が入っています。
「うん、あるよ」
「一皿 175円で、200円もらったら、お釣りはいくらだい?」
「25円!」
ま、この程度なら、3年生の世界です。
「二皿買ってくれたら、いくら代?」
「えっと、350円」
まあ、いけます。
「じゃあ、3皿買ってくれて、千円札くれたら、お釣りはいくら代?」
「・・・・・・」
ちょっと時間が必要でした。
「九九」を習い始めて1年かそこら。
電卓はまだ高級品で、手元にはなく、救難さんは確実にパニックを引き起こしそうでした。
その時、一人さんが教えてくれたのが「勘定早見表」です。
一皿=175円、二皿=350円・・・・500円でお釣りはいくら、1000円でお釣りは・・・ダンボールの板に書き込んで、一発でわかる換算表を作ったのです。
お釣りの心配はなくなりました。
あの時、ひとりさんは実に細々と教えてくれたものだと思います。
商品の置き方から値段の書き方、お釣りを間違えないための便利技。
物を売るいろは中のいろはです。
準備には一切お金を使いませんでした。
値札表も勘定早見表も、、前もって新しいものを用意していたわけではなく、ありあわせのダンボールで代用しました。
もちろん手書きです。
知恵を働かせれば無駄なお金は使わずに済み、何よりも全部、自分の手でやったという満足感がありました。
「手作りがいいんだよ。
ちょっとぐらい泥臭い方がいいよ。
人が精魂込めて作ったもの、書いたものは、必ず相手に伝わるんだから」
一人さんは今もよくそう言います。
自分でも手書きのチラシを作ったり、ポスターや色紙を書いたり、手仕事を実にマメにやる人です。
それは、自分の手の中にある商品を心を込めてて渡すと言う、商人魂の基本なのかもしれません。
と、偉そうなことを言いながら、この時の教えを完全に無視して、後々私は大失敗をやらかすことになるのですが・・・・・・。
商品は揃った、値段もつけた、味見用のサンプル、お釣りもOKです。
これで準備は終わりかと思ったら、ひとりさんはまた妙なことを言い出しました。
「かんちゃんさ、この辺りに知り合いのおばちゃんとか、おじちゃん、いるだろう?」
「いるよ」
「2、3人、ちょっと頼んで、きてもらうわよ」
私はお客様を一人一人呼びに行くのかと思いました。
でも、知り合いのおばちゃんならうちのタコやイカはもう何度も買ってくれています。
また買ってくれるだろうが、そんなことをぐずぐず考えていると、一人さんは私の心配を見透かしたように言いました。
「違うんだ。本当のお客様じゃなくていいんだ。
店にかんちゃんしかいないと、子供だから店番してるだけで、売ってないと思われちゃうだろ。
だから、僕はちゃんと商売してるんですよってところを見せなきゃいけない。
お客様を呼ぶには、お客様が一番なんだよ。
最初は、そういう役をしてくれる人がいると助かるんだけどな。
つまり、さくらだな」
さくらの意味を初めて知ったのも、この時でした。
頼みに行きましたよ、駄菓子屋のおばちゃん、酒屋のおばちゃん、私の行きつけの店のおばちゃん総動員です。
「僕、店やってるんだけど、お客さんが溜まらないから、ちょっと来て」
おばちゃん達は嫌な顔ひとつせず、ライトバンの前に集まってくれました。
みんな商売をしていますから、自分のやるべきことは心得ていました。
味付けタコを見るや、一口、
「あぁら、美味しいね」
大きな声で宣伝してくれます。
うちのタコは確かにうまかったんですが、それにしても松島界隈は名女優揃いで、ライトバンの前は一気に活気付いて行ったのです。
「お客さんを呼ぶには、お客様が一番」
全くその通りでした。
「まるかん」の店に立つようになると、そのことを実感します。
お客様同士で話が弾み、お互いに商品の情報交換をしていることがあります。
お客様自身そうとは気付かずに、宣伝マンになっているのはよくあることなのです。
ライトバンの店、小さな店主、「美味しい、美味しい」と叫ぶおばちゃん達、通りがかりの人たちが興味津々、何事かと足を止めます。
「何やってるの?」
「ボクが売ってるの!? 偉いね!」
子供をしている=偉い!
それが当時の市と町の率直な反応でした。
恵まれない家の子なんだわね、と言うという同情票もあったようで、小さな店は盛況でした。
私がお客様の相手をしている間、一人さんは手も口も出しませんでした。
と言うか、興奮した私は一人さんがどこで見てくれたのか、全く気がつかなかったのです。
お客様がはけて、ふと見ると、一人さんが立っていました。
「かんちゃん、どうだい?」
「うん、売れたよ! 面白かった!」
「そうか、面白かったか?」
一人さんは、ニコニコ笑っていました。
追記 ホッケ週間
当時の我が家には、月末になるとなぜか毎晩ホッケの干物が続く、ホッケ週間というのがありました。
「また、ホッケなの!?」
私が文句言うと、母はこくりと頷き、
「そう、ホッケは美味しいからね」
と言うのです。
それは、美味しくないとは言わないですが、毎晩ですよ、毎晩。
大きな店の売れ残りでした。
こんな話ばかり話すと母はなくでしょうか、子供の頃、私は「お肉」というのは串に刺したものだとずっと信じていました。
我が家では串カツかハムカツが「お肉」であり、ソースをたっぷりかけて、その辛さの勢いでご飯を2、3杯かき込むというのも月末の定番メニューになっていました。
そうした月末メニューの原因の一端は、実は私にもありました。
私は子供の頃から体が弱く、アトピーには長く悩まされていました。
しょっちゅう風邪をひき、医者通いをしていましたから、治療費がかさむと、店の支払いもあり、最後は食事にしわ寄せがいったのです。
だからといって私が気に病むことも、ひもじいと感じたこともないのですが、この頃の記憶は母には小骨のように刺さっているらしく「ホッケしか食べさせてやれなかった」「6人一緒にも見せてやれなかった」と、今でも悔やむように言うことがあります。
今、私も親になってみると、母の悔しさがよくわかります。
親であれば、子供にはああいう経験はさせたくない。
祖父が頑張って大きくしたお店は、私が小学生の後半になる頃、祖父の頑固さもあって急速に小さくなっていったのです。
「それで、元は取れるのかい」
あの言葉にショックを受けて以来、母は子育てのこと、店のこと、さらには自分の人生について思い巡らせているようでした。
私の進学資金という現実問題も浮上してきました。
やるべき事は増えていくのに、資金は手詰まりの状態。
そのジレンマに母達は四苦八苦していたのです。
いつもの喫茶店で、母が店がうまくいかないとこぼしていました。
そのことで祖父と意見が合わない、と愚痴も出ます。
すると、一人さんは言いました。
斉藤一人さんのお話を纏めました。
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