我慢しないことの方が、実は愛なんです。
いい人が悪いやつに負けちゃダメなんだ
はなゑさん
ひとりさんの教えを学ぶ人って、真面目で優しい人ばかりです。
それはとてもいいことなんだけど、中には、いい人すぎて自分を犠牲にしがちな人もいるんです。
自分のことは後回しで人に尽くしたり、一歩引いてぐっとこらえる癖がついちゃってたりして、なかなか言いたいことが言えない。
それって一見、愛のある正しい行動のように思われるかもしれないけど、自分を犠牲にするのは愛じゃないですね。
斎藤一人さん
その通りだよ。
それをやっちゃってると、仕事でもプライベートでも人から舐められちゃうの。
嫌なことを押し付けられても泣き寝入りするとか、人間関係で理不尽な目に遭いやすいんだよね。
だから、嫌なことはビシッと断らなきゃいけない。
それは自分を守るためでもあるけど、一方で、相手を「嫌な奴」にしないことにもつながる。
我慢しないことの方が、実は愛なんです。
そもそも、いい人が嫌な奴に負けてちゃダメだよ。
意地悪な奴に、優しい人が苦しめられたり、自分らしく生きることを邪魔されたりしてちゃいけないんだ。
はなゑさん
つまり、「我慢しちゃいけない」「なめられちゃいけない」ってことですね。
こういう人こそ、檄文が効果的ですね。
斎藤一人さん
檄文は、ただ読むだけで勝手に強い波動になるからね。
そうすると、嫌なやつを寄せ付けなくなる。
どんな相手も、檄文には太刀打ちできないんです。
あのね、会社の理不尽な上司とか嫌みなお局様みたいなのってさ、その本人が幸せじゃないんだよな。
人の悪口や愚痴、泣き言ばかりで、心の中がヘドロみたいな汚れでいっぱいなの。
だから嫌なやつになっちゃうんだよ。
弱い者いじめするなんて、所詮、大したやつじゃない。
そう思いな。
はなゑさん
そう!! 嫌な人ってすごくちっちゃいし、弱い。
どんなに偉そうに威張っていても、実際はちっとも強くなんてないの。
ごめんなさいだけど、雑魚です。
優しい人は光の存在であり、精霊です。
その反対に、意地の悪い人には悪霊がついている。
悪霊がくっついているから嫌な人になっちゃっているだけで、檄文で悪霊を退散してあげたら、相手も助かるんですよね。
斎藤一人さん
本当は、どんな人の魂も愛を欲しがっている。
誰だって、嫌なやつだと思われたくないの。
だけど小さい時からいろんな抑圧を受け、間違った観念を植え付けられたことで、知らず知らずのうちに悪霊を呼び寄せてしまった。
生まれつき嫌なやつだったわけじゃないから、はなゑちゃんの言うように、檄文で浄化してあげたらいいんです。
はなゑさん
悪霊が抜けて本来の優しい人に戻れたら、本人もすごく楽に生きられるようになるでしょうね。
そういえば、体験談の中にすごく面白いのがあって。
「理不尽な上司に意見したら、『上司に逆らうのか』って潰しに来たので、『あんたなんか上司だと思ってねえよ!!』と言ってやりました」
めちゃくちゃ痛快でしょ?
仲間たちもみんな、「最高!!」って拍手喝采。
もちろんこれは相手が嫌な上司で、ずっと不愉快な思いをさせられてきたという背景があってのことだけど。
こういう相手には、ガツンと言っていいですね。
斎藤一人さん
心がスカッとしてくると、スカッとした言葉が口から出てくるんだよな。
ただ、言い返せない人がダメなわけじゃないよ。
言い返すことができなくても、波動が強くなりさえすればいいの。
さっきの人みたく上司にもの申せなくたって、檄文で気持ちが強くなれば、あなたから「強い圧」が出る。
それだけで相手になめられなくなるんです。
嫌なやつに負けないように、そして嫌なやつをいい人に戻してあげるために、大いに激文を活用してください。
大和魂に込められた「究極の許し」
はなゑさん
様々な体験を通じ、檄文は、戦に命をかけた武将たちの熱い思いに共鳴することが分かりました。
そして、浮かばれない魂を浄化する強いパワーもある。
檄文には大和魂が色濃く投影されていて、そこには「究極の許し」という意味もあるのではないかと、私は読み取っています。
斎藤一人さん
これだけあっちこちで武将が見える人がいるって事は、檄文の波動の強さは、やっぱり大和魂によるところがあるんだろうね。
じゃあ大和魂って何かといえば、辞書には「豊かな感受性や誠実性」「思いやりの心」みたいなことを指す言葉として紹介されているわけだけど、要は古くから日本人が大切にしてきた、愛の精神、心意気みたいなものを意味するんです。
外国やなんかでは、「自分は自分、人は人」で自分と人との境界線がピシッと引かれてるイメージだけど、日本では、自分と同じように他の人のことも大切にする。
人情に篤いんだよ。
はなゑさん
だから日本では、自分と利害関係が一致しないからと言って、何でもかんでも敵視するわけではありません。
大和魂の戦には、「この相手が、たまたま的だった」みたいな感覚がある。
相手が勇ましい戦いぶりであれば、「敵もあっぱれ」と認めるし、道理にも反しません。
例えば決闘の時、日本刀を構えながらにらみ合う場面があります。
その時にちょっと着物の紐がほどけたりすると、相手は紐結び直す時間をくれる。
不利な状況に乗じて切り込んだりせず、フェアに戦うわけです。
卑怯なことはしない、潔さがあるのが大和魂ですね。
斉藤一人さん
言ってみれば、敵も味方も思いは同じなの。
たまたま今回は敵になったけれど、従える御館様(君主)が同じだったら敵として戦うことはなかった。
環境が違えば、力を合わせて戦う仲間になれるんです。
それは、同じ大和魂を共通して持っているからだよね。
戦であっても、そこに愛がある。
義のために戦いはするけど、根底では相手の許しがあるから、敵の命を奪いながらも、「惜しい人物を失った」と悲しんだりするの。
人間的には、相手のことを深く敬っているんだよね。
矛盾しているようだけど、日本人には理解できる感覚なんです。
はなゑさん
8つの檄文にしても、多分、かつては敵同士だった隊もあると思います。
だけど、不思議なほどに統一感があるんです。
それはやっぱり、大和魂というつながりがあるからでしょうね。
究極の愛、究極の許しがあるから、檄文は最高の鎮魂歌となりえるのだと思います。
そして檄文がこんなにかっこいいのも、強く美しい大和魂の波動が込められているからですね!!
※少し激しすぎる文章なので、ご理解のほどよろしくお願い致します。
※少し激しすぎる文章なので、ご理解のほどよろしくお願い致します。
檄文 大魔人
我ら無敵の大魔人
荒れくる海を押し渡り
前に押し出す大砲も
狙いたがわず炸裂し
雄叫び上げて突き進み
勝ってみせます日本一
以上
斎藤一人さんの話を纏めました。
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