商いとは、本来『神ごと』。
数字は商人にとって羅針盤
以前、一人さんとドライブしていた時のことです。
どういう話の流れでそうなったのか、忘れてしまったのですが、1人さんが貝塚の話を始めたんですね。
貝塚は、そこに住んでいた人たちが食べた貝を捨てた場所だと、思っていたのですが、ひとりさんの話によると、どうも、そうではないらしいのです。
貝殻の量が、その集落の人が食べた料理にしては多すぎることから、砕いた貝を加工して、山の民と交易していた可能性があるらしいのです。
しかも、海沿いの集落で暮らす集団と、参加の集落で暮らす集団の交易は、縄文時代からすでにあった可能性が高いのだそう。
貝塚の話の後、一人さんは、こんな話をしてくれました。
「山間の集落には、山で取れるものはふんだにあるけれど、海でとれるものがない。
海沿いの集落は、その逆で、海で取れるものはあるけれど、山のものがない。
それを互いに物々交換していたんだけど、やがて、『自分で取って、自分が山へ行って交換するよりも、自分の代わりに、交換してきてくれる人がいたら便利なんだけどなあ』ということになって、仲買人みたいなことをする人が現れた。
商売って、そういう風に自然発生的に出てきたものなんだよ。
そして、昔はね、商いは、神社のご神木の下でやっていたらしいんだよ。
それは、へんてこりんなものを売りつけないためにね、ここ商いをするにあたって、自分たちは神様の名にかけて、お客さんが喜ぶ商いをします、ということで、ご神木の下で商いをしていた。
つまり、本来、商いは、『神ごと』なんだよな」
何を言いたいのかと言うと、商売がうまくいかない時は、商売が『神ごと』だと言うことを知らないか、言っていても忘れているのかもしれません。
「商いとは『神ごと』だ」ということを忘れたくないのなら、
『商いの数字』(来店客数や売上げ)、これだけは必ずチェックしておくことを私はおすすめします。
商人にとって『商いの数字』は羅針盤と同じです。
しかも、ごまかしが効きません。
自分がやっていることが、本当にお客様に喜ばれているのかどうかが、数字に現れるのです。
ですから、例えば、一流のお店で修行して身につけた技と、こだわりの食材で、お客様をもてなしていると言っても、閑古鳥が鳴いていたら「改良点がある」ということなんです。
「うちのこだわりを、理解してくれる人が少ない」とか、言っていられないのです。
商売でもなんでも、仕事を始める時は、自分が「これで行ける!!」「これが正しい」と思ったことをやるんです。
周りがなんと言おうと、「自分は、このアイディアで勝負するんだ」と、自分を貫くんです。
そうじゃないと、一歩も足が出ないんですよ。
だから、「正しい」と思って挑戦する。
ただ、仕事というのは、正しいことをやっていれば儲かり、間違ったことをやれば数字が下がる、そういうものなんです。
正しいことをやったつもりが、「正しい結果」、つまり利益が出ていないのだとしたら、何か間違いがあるのです。
その間違いを貫こうとしてはいけません。
なぜなら、自分を貫くのではなく、ただの頑固だからです。
頑固を貫くと、周りの人に、多大なるご迷惑がかかりますし、何より、自分自身がめちゃくちゃ疲れます。
それよりも、頑固を止めて、改良することです。
改良してやってみて、その結果を見て、また改良してやる。
これを繰り返すのです。
斎藤一人さんの話を纏めました。
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