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斉藤一人さん 二礼二拍一礼と日本人

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この一連の流れが、二礼二拍一礼という儀式。

 

 

 

二礼二拍一礼と日本人


神社の参拝の仕方は、二礼二拍一礼です。

皆さん、ご存知だと思うんですけど。


神社に行くと、まずは手を洗う、口をすすぐ。

そうやって、体を清め、清々しい気持ちでお参りする場所へ進む。

そしたら、今度は、頭をふかぶかと1回下げる(一礼)。

そうすると、落ち着きが出るんです。

落ち着いたところで、もう1回頭を下げる(二礼)。

そうすると、なぜか、神様とタイミングが合うのがわかる。

タイミングが合った時、姿勢をまっすぐにして、手を2回、パンパンって叩く(二拍)。

すると、神社には、神社の波動というのがあるんです。

自分が手を叩いて、パンパンという波動を起こすと、神社にくるまで自分についていたケガレの波動と神社のイヤシ波動が入れ替わるのです。

それで、入れ替わったことに対して「ありがとうございます」って、お礼をする(一礼)。

この一連の流れが、二礼二拍一礼という儀式。

ちなみに、人が神社にお参りに行く日は雨でも「ハレの日」とといい、お参りに行く時に着ていく服を「ハレ着(晴れ着)」といいます。


何を言いたいのかと言うと、神社というのは、実は、お願い事をするところではないんです。

神様に「ありがとうございます」ってお礼して、帰ってくる。

だから、「神様、うちの息子を大学に入れてください」じゃあないんです。

「息子が大学に行くぐらいの年齢まで、無事、育つことができました。ありがとうございます」というお礼なんです。

それから、病気だとしたら、「病気が治りました、ありがとうございます」っていうお礼の仕方もあるんだけど、「病気なのに、私はまだ生きてます、ありがとうございます」って。

「病気じゃなくてもなくなっちゃう人間がいるのに、私は病気なのに生かされています。ありがとうございます」

こういうお礼の仕方もある。

この「ありがとうございます」という、お礼の気持ちが奇跡を起こすんです。


外国に行くと、ずぅ~っと神様に拝んでいる人を見かけます。

寺院とかだったら、何時間とか、半日ぐらいかけてお願いごとをします。

外国にある「嘆きの壁」とかも、何日もの間、頭を擦り付けて、拝んでます。

それって、そこの習慣だから、いいんです。

でも、日本の神社には、ずぅ~っと神様に拝むんじゃない。

「ありがとうございます」っていうお礼なんです。

だから、例えば、伊勢神宮を参拝する場合、東京からだと新幹線に乗って、何時間もかけて伊勢神宮へ行く。

だけど、お伊勢さんにお参りしてる時間は、長くてもたった1、2分です。

パンパンって手を叩いて、「ありがとうございます」ってお礼をすればいいんだから、1、2分で済んじゃう。

お礼をするのに、そんな、ずぅ~っと言ってられないでしょ。

だから、神社にお参りするのに、往復10時間かかっても、10時間拝んでる人って、神社にはいないんです。

それ以前に、神社で神様に拝んでも、しょうがないんです。

だって、神様、そこのお祭りの日にしかいないんだから。

そうやって言うと、「神様がいないなら、神社に行ってもしょうがないんじゃないか」って言うけど、そうじゃない。

神様がいようが、いなかろうが、お礼する気持ちが奇跡を起こすんだから、叶わないんだよ、って。


神社とは「場」


私は、旅が大好きで、しょっちゅう旅をしてます。

お弟子さん達と一緒にワンボックスカーに乗って、全国を旅して回ってます。

そうすると、日本には、素晴らしい神社とか、立派なお寺があるんです。

そういうのをお参りして回るのも楽しみのひとつだよ、っていうことなんだけど。

今回は神社について話をしたいんです。

なぜかと言うと、神社って、面白いんですよ。


例えば、いろんな神社に行くと、それぞれ、御祭神というのがあって、神様をお祀りしてます。

ところが、神社って、普段、神様はいないんです。

神様は、お祭りの時に神社に来て、氏子さんたちやなんかが、お神輿を担いだりしてるのを見て、お祭りが終わったら帰っちゃう。

帰った後は、「後の祭り」っていうのをやるんだけど、それはそれとして。

とにかく、神様は、お祭りの時にしかいない、と。

それで、日本の神様っていうのは、お祭りの時にお迎えして、みんなして神様を楽しませる。

そういうことになってます。

それから、日本の神様には教えがない。

普通、宗教って言うと、「ああしなさい」「こうしなさい」という教えがあります。

仏教でも、未だに、釈迦の教えを説いています。

でも、神道にはそれがないんです。

一人さん的には、そこが非常にいいね、っていう。

それで、神社は宗教法人にはなっているんだけど、宗教なのに教えがないって、世界でも非常に珍しい。

だから、本来的には宗教じゃないかもわかんない。

じゃあ、神社というのは、何なのかという話になるんだけど。

神社とは、「場」なんです。


「場」というのは、イヤシロ地。

要するに、人が癒される場所、ということなんです。

はるか昔の日本人は、周りをじぃ~っと見ていて、人を癒すエネルギーが充満してる場所が分かった。

どういう場所ですかって、ほら、神社にはでっかいいちょうの木とか、でっかい杉の木があるでしょ。

そのでっかい木を御神木っていうんだけど。

みんな、「神社に御神木がある」って言うし、私もさっきそう言いました。

でも、本来は「神社に御神木がある」んじゃないんです。

正しくは、御神木があるから神社ができた。

御神木が先なんです。

だから、でっかい木があるところが、イヤシロ地で、そこに神社を建てた。


イヤシロ地には、生命を育むエネルギーがあるんです。

それと、目に見えない力で守られてる。

だから、他の場所と比べて、木がよりよく育つ。

わかりますか?

別に、イヤシロ地じゃなくても、生命を育むエネルギーが強くて、木がよく育つ場所ってあるんです。

だけど、何年も木が生えている間、嵐が来たり、雷が落ちることもある。
嵐が来たら、でかい木になればなるほど雨や風がもろに当たるから、倒れやすい。

それから、雷って、高いところに落っこちるよね。

木が成長して、どんどん上に伸びていくと、そのぶん、そこに雷が落ちる確率が高いんです。

それを、何百年もの間、嵐にも倒されず、雷も落ちてこないで、ずっとそこに生えてて、ぐんぐん大きくん伸びてるってことは、その場所にはエネルギーがあるだけでなく、守られてる。

人間だって、いくら才能があっても、ちょっとしたきっかけで病気になっちゃったり、事故にあったり、守られていなかったら、せっかくつけてもらった才能も発揮できないよね。

だけど、その才能を人のお役に立て尽くした人って、何かに見えない力に守られてる。

それと同じで、イヤシロ地というのは、生命を育むエネルギーがあって、かつ守られてるんです。


「気」は「木」


自分たちが普段生きてる場所って、仕事をしたり、いろんな人と知り合って色々学べたり、畑だったらいろんな作物が取れたりする、いい場所だよね。

でも、上司の雷とか、奥さんの雷とかが、落ちてくることもある。

それから、普段いる場所というのは、イヤシロ地に対して、ケガレ地といってね。

生きていると、人のしがらみや悪い感情で心や体がけがれる。

心のエネルギーが失われてきちゃう時もある。

後さ、生きてると、「いっちょうやってやるか!」って奮起して、気合を入れてやらなきゃいけない時もある。

そんな時、心のエネルギーが減ってきたり、「もうちょっと、良いエネルギーがほしいな」って時は、神社に出かけていくといいんです。


神社っていうのは、魂のお医者さんというのか。

エネルギーをもらえるという捉え方でいくと、「気」のお医者さんみたいな場所なんです。

元気の「気」をもらえる場所。
ただ、そういう場所って、普段自分たちが生きてるケガレ地のすぐ近くでは、そうそう見かけない。

めったやたらと行けません、っていう人が多いと思うんです。

そういう人は、どうするか。


ほら、御神木って、木でしょ。

「一人さん、何を言いたいんですか?」って、はるか昔の日本には、言葉はあったけど、文字がなかったんです。

それで、木は「き」って言うんじゃない?

実は、木も元気の「気」も同じ意味なんです。

だから、気が衰えてきた時、木のあるところに行けばいい。

大木の所へ行けばいいんです。

森の中を散策したりする森林浴っていうのが、今、流行ってて、ヨーロッパの方でも結構盛んに行われてるんだけど。

木も、気気も、同じ「き」なんです。

昔の日本人は、でかい木のあるところに行って、「き」をもらって、そういうところを大切にしたんです。

だから、神社に行けなかったら、そういうところを探していけばいいよ、ってことです。


ただ、でかい木も、都市開発やなんかで、最近減ってきちゃってるからね。

だから、ひょっとしたら、人間がイヤシロ地になるのが、一番いいのかもわかんない。

周りの人に元気の「気」を与え、魂を癒す、イヤシロ人間になる。

そういう人って、世間の人からしたら貴重だよ。

みんなに喜ばれて自分も嬉しくて、すごくいいよ。


今までと違う、神社の楽しみ方


神社の話が出たんで、もう一個、神道的な話をします。

神道的な話というのは、日本人の原点。

仏教だとかが日本に入ってくる前の考え方です。

たとえ、茨城県にある鹿島神宮。


この御祭神は、武甕槌大神といって、雷の神様です。

この鹿島神宮に行くと、本殿がある。

本殿を過ぎて、奥に行くと、「荒神様」って書いてある所があるんです。

普段のお参りの時、いつもの簡単なお願い事をする場合は、本殿でいいんです。

だけど、めちゃくちゃ自分が頑張ってもかなわない。

そういう難しいお願い事が、もしあったとしたら、荒神様の方へお願いするんです。

雷さまがピカピカってなってる、そのすごいパワーを、「私にもください」と言って、荒神様のパワーをいただく。

わかりますか?

仏教だとか、キリスト教だとか、色んなものが入ってきた時、雷さまを鎮めるとか、鎮める神様とか、いい出したんです。

でも、元々の日本人の考え方的にはそうじゃない。


雷っていうのは、稲妻。

雷がどんどんなると、稲の育ちが良くなるから、「あの雷こそは稲の妻である」っていう捉え方なんです。

雷を鎮めよう、じゃない。

それから、大木もなぎ倒すぐらい、すごいパワーを持った嵐が来た時、日本人は「あの嵐を止めてくれ」じゃない。

あの嵐があるから、水不足にならずに済むんだ、って。

それから、この嵐にはすごいパワーがあるんだ。

このパワーはエネルギーなんだ。

このパワーを私にもください。

そういう発想なんです、本来の日本人は。


だから、富士山の麓、山梨県側の方に木花開耶姫命という神様を祀ってる浅間神社がある。

青森の弘前には、通称・津軽富士、岩木山という山があり、麓に岩木山神社がある。

そうすると、岩木山、富士山って、昔は火山活動が活発で、しょっちゅう爆発してたから、

今の日本人は「火山活動を沈めた来て神社を造った」と思うんだけど、本当はそうじゃない。

もし仮に、「お鎮まりください」という発想で神社を造っったとしたら、火山の近くに人は住んでない。

だって、そうでしょ、「良くないもの」と捉えていたら、近づかないよね。

だけど、火山の近くに人が住んでんだよ。

それは、火山を神として崇めていて、そのすごいパワー、すごいエネルギーをいただこう、っていう考え。

だから、火山でも、雷でも、その「エネルギーを頂きたい」という考えであって、否定からは始まってないんです否定からは。

そこが、日本人のすごいとこなんだよ、って。


私は、仏教がいけない、キリスト教的な考えがいけない、って言ってるんじゃないんです。

砂漠みたいなところにいると、「神よ、なんとかお助けください」「日照りからお助け下さい」っていう考え方も出てくる。

それから、キリスト教的な発想で、暴れ川にダムを作るとか、自然を制していこうという考えもある。

それはそれでいいんです。

どっちが正しくて、何がいけない、ということを言ってるわけじゃないんです。

だけど、今の日本人が忘れかけてる、原点。

嵐や雷、火山、そういったものをに神を見て、

「あのエネルギー、すごいな。このエネルギーを私にお授けください」

「私のパワーとして、お授けください。そしたら、私はまた元気にがんばります」

「がんばって畑仕事をします。人にも、このエネルギーを分けてあげます」

山伏もそうなんだけど。

山伏って、山の上をひたすら歩いて、山からすごいパワーを頂いて、その気を人にお分けする。

そういう修行もあるのね。

こういう神道的な考え方。

すごいエネルギーを鎮めようというのではなく、「私に授けてください」っていう発想。

そういう目で、今度、神社にお参りすると、また違った楽しみ方ができて、いいよ、ってことです。

 

 

斉藤一人さんのお話を纏めました。

 

皆様、いつもご精読ありがとう御座います。

 

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