「お母さんも、お父さんも、一生懸命働いているんだから、いい子にしてなきゃいけないんだ」
と、次男に諭す長男。
この二人の姿を偶然発見した時、
「親はなくとも子は育つ、とはこのことか」
と、嬉しくなってしまいました。
- 「働くことは楽しい!」を教わった子供、教わらなかった子供
- 幸せのパズルあなたのやることは「三つ」だけ!
- 「世の中が不公平不公平なのは当たり前だよ」ここからが本当のスタート!
- 追伸 人付き合いは「山」みたいなもの
「働くことは楽しい!」を教わった子供、教わらなかった子供
一人さんから、子育てに関して教わったことで、「信じる」ことのほかに、もう二つあります。
それは、
「親が子供にしてあげることは、働くことは楽しいことだと教えることと、材料をあげること」
というものです。
なぜ、「働くことは楽しいこと」と教えなければならないかというと、人が生きていくためには、働いて、少なくとも食べていくだけのお金を稼がなくてはならないからです。
これから社会に出て、働いていかなければならない子供に、「働くことは嫌なことだ」と言ってしまったら、子供は仕事に対して「大変だ」「嫌なものだ」と思って当然です。
それで、自分で働いて自分を食べさせて行こうと思ってくれるでしょうか。
果たして、社会から必要とされる人間に育ってくれるでしょうか。
私が子供だったら、答えはNOです。
だから、親は働くことが楽しいことだと教えなくてはなりません。
「材料をあげる」というのは、子供がいろんな悩みにぶち当たった時には、
「こういう考え方があるよ。
私の場合にはこういう考えで、こうやって乗り越えたけれど、それであなたが成功するかどうかわからない。
こういうやり方で私は失敗したけれど、あなたならできるかもしれない」
というサンプルを、いくつか示してあげるのです。
子供が迷った時に、手を引いて、一緒に子供の人生を歩んであげてしまったら、親の顔に、
「このこのために・・・・・・」
という悲壮感が浮き出てしまいます。
そんな顔をしていては、子供は、親に対して罪悪感を持ってしまいます。
これでは生まれ持った「幸せになる力」を発揮できなくなってしまいます。
辛い人生です。
こんな罪悪感を抱いていたら、子供は幸せになることはできません。
それで、親として満足できるんでしょうか。
私にはできない。
人の親ならば、誰もそんなことはできないはずです。
だから、うちのスタッフの田中さんも、親に対して罪悪感を持っていたそうです。
このスタッフに対しては私ができることも、材料をあげるぐらいのことでした。
でも、その彼女から、こんな手紙をもらいました。
「和美さんから、自分の幸せは自分が責任持たなくちゃいけない、という話を聞いてという話を聞いて、『両親の人生に、私が責任を持たなくてもいいらしい』と思えるようになって、『私は私の幸せのためにエネルギーを使っていいんだ』ということが分かってからは、両親への罪悪感が取れて、『親は産んでくれただけでありがたい』と思えるようになりました。私にとってすごい変化です」
幸せのパズル
あなたのやることは「三つ」だけ!
人は材料さえもらえれば、あとは自分で「幸せのパズル」を完成させることができるのです。
私のこの役ができるようになったのは、仕事をしていたからです。
だから、子をもつ女性が働きに出ることは、決して子どもにとってマイナスの要因にはなりえません。
ところが、働きに出る時に子供が言う、
「お母さん、行かないで」
という言葉は、胸にズシッと突き刺さるものです。
でも、いつも子供と一緒にいてあげることが、親の役目ではありません。
前にも言ったように、「子供に悪いことをしているんだ」と罪悪感をもってしまうと、かえって逆効果になってしまいます。
父の会社で働きながら、子育てをやって、なおかつ自分で銀座まるかんの仕事をすることになった時、周囲の人が一番心配したのが、子供たちのことでした。
「母親がいないと、子供はグレる」
と言われ、正直、私も悩みました。
幸いなことに、長男は、私が知る事でいなくても「寂しい」という言葉を口にしたことはありませんでした。
「人は働かないと食べていけないんだ」
という感覚が身についていたのです。
しかし、次男の治郎は違いました。
幼稚園の友達は、お母さんのお出迎えがあります。
ところが、私は幼稚園のバスに子供をの乗せて、「じゃあね、バイバイ」と。
そんな私に、次男はこう言いました。
「なんで、一緒に手をつないで幼稚園に行ってくれないの」
「今日はお休みなのに、どうしてお母さんはお仕事するの」
そんな次男の言葉に、時々心が揺らめいてしまう私・・・・・・。
「一緒にいてあげたい、でも働きたい」
という葛藤がありました。
私が幸せになることで、この子が幸せになれる、というプラス思考がなかなかできなかったからなのでしょう。
一緒にいる時間が持てても、決して次男の心は満たされないようで、何を話しかけても、喋ってくれなくなってしまいました。
でも、それも「困ったこと」でありませんでした。
子供は、始終、母親がいなければ育たないものはありません。
また、一緒にいてあげられるのは、母親だけではありません。
父親だって、子供と一緒にいてあげられるはずです。
夫と相談した結果、夫が絶えずコミュニケーションをとることを心がけてくれました。
少年野球のチームに入った彼に、お弁当を持って行ってくれたり、色んな所に連れて行ってくれたりしたおかげで、次男は少しずつ話をしてくれるようになりました。
長男も、子供ながらに責任感を持っているらしく、ちゃんと面倒を見てくれました。
「お母さんも、お父さんも、一生懸命働いているんだから、いい子にしてなきゃいけないんだ」
と、次男に諭す長男。
この二人の姿を偶然発見した時、
「親はなくとも子は育つ、とはこのことか」
と、嬉しくなってしまいました。
次男の伸びる力を改めて信じてみよう。
そう思い直して、迷いを吹き飛ばして、楽しみながら働きました。
本当に、仕事をやりだして、色んな問題があったけれど、息子たちや、スタッフに、
「自分のやりたいことをどんどんやりなさい」
と言ってあげられるのも、
「やりたいことをやっていれば、人は幸せになれる」
ということは話すことができるのも、その問題のおかげです。
子育てと仕事の狭間で悩む女性は、今も絶えることがありません。
でも、私は絶対の自信を持って言うことができます。
女が幸せになるためにやりたいことをやって、損をすることは一つもありません。
子供が損をすることもありません。
子供に対してやるべきことを全うすれば、後は子供は勝手に成長します。
「信じること」「働くことは楽しいことだと教えること」「材料をあげること」。
この三つが出来れば、それでいいのです。
「世の中が不公平不公平なのは当たり前だよ」
ここからが本当のスタート!
私には、二人の息子がいます。
二人の息子を産み、育てて、気づいたことがあります。
子育ては、「子育ち」。
子供が自分の足で歩けるようになったら、親が「この子はできる」と信じてあげれば、子供は自分の力で育っていきます。
また、また子育ては、同時に、「親育ち」でもあります。
初めて子供が生まれた時は、ただ無我夢中。
分からないことだらけだから、とりあえず、その時の自分が持っているもの、自分の経験だけで育てるので精一杯。
だから、ついつい叱ってしまうこともあります。
でも、2番目の子供は、上野子供が怒られている姿を見ているから、最初から怒られる可能性があることはしません。
それに、親の方も「子供にこうすれば、こうなる」というのがわかってきて、多少は「親育ち」しているから、2番目の子供には、口出ししなくて済むことが多い。
ところが、この「親育ち」の過程が、子供の目には「不公平」に見えてしまうこともあるようです。
私もそうでした。
ガミガミ怒られて育った私。
一方の妹は、私のように怒られもせず、自分の自由な選択が許されている。
でも、いろんな経験をしてくると、
「結局、大して問題じゃなかったな」
と、振り返ることができるものです。
だから、子供に「不公平だ」と言われても、決して「困る」ことはありません。
ただ、「世の中が不公平なんだ」ということが分かるまで、一生懸命に公平さを探してしまうから「困って」しまうだけのことです。
そのことがわかるまで、修行が続くだけのことです。
子供もそのことを学んでいるだけのことなのです。
うちの二人の息子も、その修行の機会をいただきました。
ましてや、家が商売をしていたから、長男は、私と同様、将来の後継者。
「商売人になるのなら、職場を見せないと、商売の感覚が身につかない」と言うので、幼い頃から、社長室に小さな机を置いて、父から「働かざるもの食うべからず。お前の仕事は勉強だ」と言われて育った長男。
一方の次男は、「可愛い孫」として扱われる。
小さな頃から、祖父、両親と一緒に家の商売を手伝う長男に対して、自由奔放な次男。
長男は何時間も手伝いをやって、そのご褒美に自分の欲しいものを買ってもらうのに、次男は「お母さん、買って」の一言で、欲しいものが手に入る。
長男の心の中では、
「俺はこんなに一生懸命やって、やっと買ってもらえるのに、治郎は『買って』で買ってもらえるんだ」
という不公平感が募り、
次男は次男で、
「兄ちゃんは、いつもお母さんと一緒でいいな」
という不公平感が募る。
男の子同士だけに、不公平感と不公平感のぶつかり合いが、兄弟喧嘩に発展することは日常茶飯時。
喧嘩をさせてみて、初めて相手の痛みがわかると思ったから、姉弟喧嘩を止めようとはしませんでした。
でも、私だって人の親です。
子供達が喧嘩になって嬉しいと思えるわけがありません。
でも、一人さんから、
「世の中が不公平なのは当たり前なんだよ。
車だって、ベンツがあれば、トラックだってあるし、バイクもある。それぞれ違うだけなんだ」
ということを教わって、息子達も、喧嘩をしながら、お互いに勉強してるうちに、それがわかるようになって、互いに「喧嘩はすべきではない」という風に決着をつけたようです。
親が口出しをしなくても、子供は世の中の「不公平さ」を乗り越えられます。
ただ、ひとつだけ注意したいのは、世の中不公平だけど、それぞれ違って当たり前だけれど、違うものを二つ並べて比較したりしないことです。
「〇〇ちゃんはできるのに、何であんたはできないの」と言ってしまったら、子供は永遠に「公平さ」を求め続けてしまいます。
子供が親の愛をわかって、自分の命に恥じない人生を送るためには、それぞれの違いを理解してあげる、一個の人格として認めてあげることが必要です。
そうすれば、子育てはとっても楽しい経験です。
親が楽しめば、子供も楽しみながら「子育ち」していきます。
追伸 人付き合いは「山」みたいなもの
ずっと仲良くしてきた相手に対して、なぜか一緒にいてもあまり楽しく感じられなくなってくる事ってあります。
そういう時、相手と距離を置くことに罪悪感を抱く人がいるんだけど。
あのね、テレビで面白くない番組をやっていたら、迷わずチャンネルを変えるよね。
そのことでテレビに罪悪感を抱くかい?
というくらい、一人さんには、罪悪感を抱く意味が分からないんです。
相手に対する感覚が変わるのって、「山」みたいなものなんだ。
山をしたから見ている時は高く見えるけど、隣のもっと高い山に自分が登ると、今度は低く見えるんだよね。
そういう現象が、魂にもあるんです。
だから、罪悪感なんて抱く必要はないんだ。
要は、自分の魂が成長したことで起きた現象なの。
友達との距離に寂しさを感じるかもしれないけど、自分の成長は喜ばしいことだから、ネガティブな感情に流されることはないんだ。
でね、本当は仲間と一緒に成長するのが一番いいんです。
仲間と一緒に成長できたら楽しい。
そのために俺だったらどうするかと言うと、相手が面白くなくても、自分がその場を楽しくするんです。
自分一人しかいない時でも面白いことばかり考えているから、場を盛り上げるのなんて訳ないんだよね。
楽しい雰囲気を作るにはどうするんですかって言うと、ひたすら「くだらない」ことを意識するの。
半端なく、くだらないことだよ。
そういう突き抜けた面白さを身につけると、周りにも同じように突き抜けた人が集まってくるから、勝手にどんどん楽しくなる。
いつのまにか、自分の周りに楽しい人しかいなくなっているものだよ。
斉藤一人さんのお話を纏めました。
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