今の自分の言葉に「愛」を感じるだろうか。
今の自分の態度は「愛」の表現になっているだろうか。
今の自分の顔に「愛」は出てるいるだろうか
- 「愛語」の愛ってなんだろう?
- Q「本当の自分」って、どうやって探すんですか?
- 素敵の種まきをしていると、どんどん豊かになるんだよ
- 答えはひとつでない「愛語」
- 追伸 本当の自分に気づくことが「悟り」なんです
「愛語」の愛ってなんだろう?
今日一人さん号が行く道は、一人さんといつか来た道。
昔、この道を通った頃、私は本当の自分に、まだまだ気付いていませんでした。
「自分はこうだからダメだ」
「自分は何もできない人」
という、「ダメ」のレッテルに自分を従わせていました。
自分に自信が持てませんでした。
周りの人はみんな立派で、「私なんて」って。
人の可能性は、世間の常識では測れないのです。
それなのに私は、
「自分はここまでしか行けないんだ」
って思っていました。
人生の選択肢を狭めて、自分をがんじがらめにして、追い詰めて鬱になっちゃって。
そんな経験が、今の私にとっては宝です。
「本当の自分」に気づいたのも、
周りの人の「愛」に気づいたのも、
「うつ」を経験したからでした。
そして、私は自分で自分を褒めたり、自分の気持ちを相手に伝えられるようになったり、会う人、会う人、ご縁のある方に私なりに「夢と希望と光」を投げかけるようになったのです。
「自分にできること」がちょっとずつ増えてきました。
でもね、不思議なんですよ。
斎藤一人さんは、目の前に来る人、来る人、みんなに言うんです。
「あなたはそのままで大丈夫なんだよ」
って。
「あなたには、あなたの運命と定めがあって、最高にいいように創られているからね」
って、人を変えようとしないのです。
この辺りから、愛のある言葉、
「愛語」について、ひとりさんのお話を聞いてみますね。
「一人さん、質問していいですか」
Q「本当の自分」って、どうやって探すんですか?
本当の自分を探すってさ、大きいことじゃないんだよ。
例えば、誰かが筋子を食べてるのを見てると、美味しそうだから自分も食べてみたら自分には合わない、ということが分かったりね。
鮒寿司のことを食わず嫌いしてたけど、食べてみたら自分の舌にあって、うまかったとか、そんなことなんだよ。
日常なんですね(みっちゃん先生)。
日常なんだと思うよ、自分探して。
もちろん、俺が正しいんだ、ということではないんだよ。
他に、いろんなやり方があるよね。
それらは間違いではないんだよ。
ダダ、一人さんには一人さんの考えがあるよ、っていうことなの。
一人さん的には、ご飯を食べてても、いつもそばにいる人と話をしていても、
「自分を発見する事」ってたくさんあるんだよ。
自分の適量を知らないで飲み過ぎちゃって二日酔いをしちゃったとか。
そんな失敗を経験して自分の適量がわかると、他人にも「無理して飲むなよ」とかって言ってあげられる。
楽しくお酒を飲める自分になるんだよね。
楽しくお酒を飲めるなんて、素敵ですね。
ほんとだね。
みっちゃんの言うとおり、これって素敵なことだよね。
だから人生って、失敗を経験しながらひとつひとつ素敵を集めて、自分がちょっとずつ素敵になっていくんだよ。
ちょっと素敵になって、また失敗して、またちょっと素敵になるんだよ。
そうやって、小さな素敵をちょっとずつ集めながら進んでいる自分ってさ、やっぱりいいよな。
素敵だよな。
一個の素敵は小さいかもわかんない。
でも、小さい素敵な組み合わせがやがて「本当の自分」になっていくんだよ。
電話帳ってさ、1ページ、1ページは薄い紙でしょう?
それを何枚も重ねて、あんな分厚い電話帳になるんだよね。
人間もそれと同じだよ。
経験をして自分が何者であるかということがわかり昨日の自分より1秒でも長く笑顔でいられるようになったり、昨日より愚痴・悪口を言う回数が減ったり、ちょっとずつ、ちょっとずつ自分が素敵になっていくことなんですね、自分探しというのは。
素敵の種まきをしていると、どんどん豊かになるんだよ
昔の映画で『オズの魔法使』というのがあったんだけど。
お家に帰りたい女の子と、臆病なライオンと、藁でできたかかしさん、ブリキ男が、オズの魔法使に会いに行くお話でしょう?
そうそう、その映画に出てくるブリキ男というのは、自分の体はブリキでできている中が空洞だから「心が欲しいんだ」って、魔法使いにお願いするのね。
でも本当は、魔法使いに会いに行かなくったって、心があったんだよね。
だって「自分は心が欲しいんだ」って思ったんじゃない? ブリキ男は。
「心が欲しいんだ」という思いだって心なんだよ。
それでも「心が欲しいんだ」としたらね、小さなステッキをちょっとずつ集めればいいんだよな。
自分の心が「素敵だなあ」って感じるものってあるでしょ。
例えば、優しくて素敵な人が話す言葉には愛があって、顔から火が出ていてとかって、あるじゃない?
言葉の選び方とか、仕草を見ていると「こういう時は、こうすれば素敵なんだな」とかって思うことがあるでしょう。
そういうものを集めるんだよ。
集めると言ったって、素敵なものは集めようって思うだけでいいんだよね。
なぜなら、自分が心に思ったものと、後で必ず出会うようになっているんだよ。
心って、まるで磁石のようですね。
そうだよ。
心に思ったことを引き寄せるんだよ。
そうやって素敵を集めたら、後は脳が場面に応じて、あの素敵な言葉を隣にいるあの人に行ってあげよう、とか。
挨拶する時はあの素敵な笑顔をしよう、とか。
脳が自分に指示を出してくれるんだよ。
そうやって、素敵なことを周りの人にする、というのも「愛語」でしょう?
そうだね、「愛語」だね。
「愛語」って周りの人のことも幸せにするけど、「愛語」で生きている当人も幸せだよ。
だってさ、「愛語」で生きること自体が喜びなんだもん。
そう思わないかい、みっちゃん。
はい、本当に。
ありがたいです、一人さん。
全てに感謝です。
「愛語」で生きること自体が喜びだから、そうやって生きてる人の顔は「愛顔」といって、愛の波動が出てる顔になるんだよな。
周りの人は、その愛の波動に触れただけで幸せになっちゃうし、その波動が出てる人に、なぜかまた会いたくなっちゃうんだよ。
だから、「愛顔愛語」の人は、絶対、幸せだよね
「愛語」で生きているのに、ずっと心がモヤモヤしたり、イライラしたりしているんだとしたら、それは自分が自分の魂が求める生き方をしていない、ということなの。
「私のことはいいから、あなただけでも幸せになってね」という観念が、心のどこかにあるのかもしれない。
それは、その人なりの「愛」なんだと思うのね。
ただ、その、自己犠牲的な考えを神は「良し」としないんだよね。
大いなる神の願いは、みんなの幸せなんだよ。
「愛語」も、みんなが幸せになる生き方なんだよ。
自分にもよくて、相手にもいいこと、それが「愛語」なんだよ。
答えはひとつでない「愛語」
俺は「自分を見る」のが習い性なんだよ。
気が付くと、「自分を見ている」自分がいるんだよ。
今の自分の言葉に「愛」を感じるだろうか。
今の自分の態度は「愛」の表現になっているだろうか。
今の自分の顔に「愛」は出てるいるだろうか
って。
何でもそうだけど、「愛」を表現するのって完璧には出来ないんだよ。
だから、自分を見て改良するんだよね。
改良しても、それは「普通の正解」ではないんだよ。
例えば、「たまには奥さんにお花でも買って帰ったらいいんじゃない」って、言われて、やってみて、夫婦仲が良くなることもあるの。
だけど、人によっては、奥さんに花を買って帰ったのに、
「あなた、浮気でもしているんでしょ!」
って奥さんに言われて、ぐうの音も出なかった、という人もいるんだよな。
同じことをやっても、同じ結果にならないのが、この世の中の面白いところで、人生の醍醐味なんだよな。
だからこそ、ずっと「愛語」をやっていられるのかもわかんない。
簡単ではないから、「愛語」は面白いいいんだと思うんだよ。
簡単にすぐできちゃうのって、面白くないよな。
秩父の観音参りだってさ、32番の奥の院が、一番大変じゃない?
山を登って、岩によじ登って、やっと辿り着ける。
だけど、秩父の観音参りをした人はだいたい、「あそこが一番良かった」って言うでしょ。
逆に、街中にある札所を回っているときは楽だけど、後で「どうだった?」って聞くと、覚えている人はほとんどいなくてな。
「愛」の表現もそれと同じだね。
そう簡単にはうまくいかない。
未熟だから他人に誤解を与えてしまったり、逆に相手のことをこちらが勘違いしてしまったりしましたよ。
今もそうですよ。
でも、一人さんが光を投げかけてくれたおかげで、失敗しても「学びをいただけた」と思える私になったんですよ。
追伸 本当の自分に気づくことが「悟り」なんです
納税額日本一になったり、会社が100倍に成長したり、一人さんに、ものスゴいことが起きるから、一人さんはものスゴい人なんだ、と考える人もいるでしょう。
私の考えは違います。
起きた現象で、その人の価値が決まるのでは、絶対にない。
神様の創造物の価値を貶めるようなことを、天の神様は許した覚えはない。
いいかい。
人はみんな神の最高傑作なんです。
お釈迦様は、生まれてすぐに、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと言われているんです。
人間は、この世に生まれた時点で既にスゴい人なんだ、ということをご存知だったんです。
でも、お釈迦様はそのことを忘れてしまいました。
皆さんもお釈迦様と同じです。
自分はスゴい人だということを忘れてしまったんです。
その「自分はスゴいんだ」ということを、お釈迦様は思い出したんです。
自分は元からスゴい人だった、と。
これが「悟り」です。
「悟り」とは、本当の自分に気づくことなんです。
自分はスゴい人なんだということを思い出すことなんです。
わかるかい?
一人さんは何千年に一人、出るか出ないかぐらいツイてるのは、生まれつきの私の中には、「自分はものスゴいんだ」という感覚が満々とあり続けているからなんだ、ということなんです。
一人さんはものスゴい人だから、「ものスゴいお金持ち」になるということを、お金持ちになるずっと前から知っていたんです。
そして、本当にお金持ちになったんです。
分かりますか?
ものスゴい人だから、ものスゴいことが起きるんです。
起きた現象でその人の価値が決まるわけじゃないというのは、こういうことなんです。
ものスゴいことをやり遂げたから、ものスゴい人になるわけじゃないんです。
皆さんが思っていることと、現実は逆なんだよっていうことです。
斉藤一人さんのお話を纏めました。
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