この誓い、この修行は、「私が、私が」の我を消して、愛を大きくするためのものだったんです。
私が、私がの我を抜くと愛が残る
だけど、私って熱しやすくて冷めやすい人間なのか、また心の中から寂しさがが顔を出してきたんですよ。
でも、いつも私の心は寂しいの何て言ったら、いかにも寂しい人間になっちゃうような気がして言えない。
だけど、心の秋を抱えたままは嫌。
でも、そんなある秋の日、ふと思いついたんです。
秋は寂しいといういい方なら、自分は寂しい人間だと思われないだろうって。
それで、一人さんにこう相談しました。
「一人さん、秋は寂しい季節だよね。
だけど、私、その寂しさが半端じゃなく、寂しくてしょうがないの」
そしたら、一人さん、なんて言ったと思います?
「秋は寂しいじゃなく秋は美味しいだよ」
私は、またバカにされてんのかって思いました。
確かに味覚の秋だから、美味しいなんだけれど、北風がピューピュー吹いて枯れ葉も落ちる。
世間の人も「秋が寂しい」っていうじゃないかって。
でも、それは私が寂しいことを考えているから、寂しくなっちゃうんだって一人さんは言うわけ。
それで、
「秋はさびしを治すなんて、簡単だよ。
これをやってごらん」
っていって、教えてくれたのが、
「自分を愛して、他人を愛します。
優しさと笑顔を絶やさず。
人の悪口は決して言いません。
長所を褒めるように努めます」
でした。
だけど、私、最初はちょっと躊躇したんです。
だって、これを実践していくことと、秋は寂しいを秋はおいしいに変えることとどう結びつくのかがわからなかった。
何より、人の悪口を言わないって、当時の私にとっては、すごく忍耐のいることだったから。
でも、そうやって二の足を踏んでいる私に、一人さんはこう言って背中を押してくれました。
「えみちゃん、恵美ちゃんは、天国と地獄どっちに行きたい?
天国は光あふれて、豊かなところ。
地獄は光のささない真っ暗闇。
どこに誰がいるかもわかんない。
どっち?」
それは、当然、天国に行きたいに決まってますよ。
そしたら、一人さんは、
「じゃあ、天国行きの切符を買うための貯金をするつもりでこれをやってごらん。
天国には、人の悪口をずっと言っている人とか、ブスッとしている人はいないの。
そういうひどい人は天国に入れてもらえないんだよ」
っていうから、私も観念して、選手宣誓しました。
「自分を愛して、他人を愛します。
優しさと笑顔を絶やさず。
人の悪口は決して言いません。
長所を込めるように努めます」
あの時私は、天国に行きたいがために、必死の思いでこの誓いをやったんですが、実は、この誓い、この修行は、「私が、私が」の我を消して、愛を大きくするためのものだったんです。
「自分を愛する」はエゴじゃない
そんなわけで、「自分を愛して」って誓った私は、その瞬間から、これを実践せざるを得ないことになりました。
だけど、実は私、最初は「自分を愛して、他人を愛する」っていうのがわからなかったんです。
「自分を愛する」って事も分からなかったけれど、順番が逆で、「他人を愛して、自分を愛する」なんじゃないの?
って思った。
「自分を愛する」を先にするってことは、エゴになっちゃう。
それって、まずいんじゃないの?って。
だけど、一人さんの前で「どうせ私なんか」って言ったり、人の悪口を言ったりすると、
「えみちゃん、誓いの言葉を言ってごらん」
って、一人さんに言われて、
「他人を愛して、自分を愛してます」
って言うと、
「違うでしょ。自分が愛してが先でしょ」
って訂正される。
そうなると、あぁ、やっぱり「自分を愛して」が先なんだなぁとか思って、またわからなくなっちゃうんですよ。
で、一人さんに教えてもらおうとしても、一人さんは、
「頭で理解できても、体験しないと心は理解できないよ。
これは自分で体験して、感じ取って体得するしかないんだ」っていうわけ。
しょうがないから、「自分を愛して、他人を愛します」はとりあえず置いといて、できることからやってみようってことにしました。
「優しさと笑顔」。
これは小さいときから親に言われてきたことだから、私の中では当たり前の努力。
で、なるべく努力して、まあまあ、そこそこできました。
それから、「人の長所を褒める」も、やろうと思うとできるんです。
だって、私自身、人から褒められるのが好きだから。
自分が好きなことは相手にもしてあげたいなって思える。
ところが、「人の悪口を言わない」がなかなかできないんですよ。
忍耐すればできるけれど、私としては忍耐しているつもりなんだけれど、気が付くと、ポロっといっちゃってる。
「わぁ~、神様、許して!私、地獄は嫌だよ」
何て、焦って誓いの言葉を言って、頭の中で仕切り直し。
これの繰り返しでした。
だけど、繰り返しやっていくうちに、知恵ってついてくるものですね。
ある時、ふと、思いついたんです。
「そうだ、私は人を褒めることができるんだから、人の悪口を言う前にその人の良いところを見つけて、褒めればいいんだ。
口は一つつしかないんだから、人のことを褒めている最中は悪口なんて言えないし」
で、不思議なもので、良いところを褒めなくては、と思って人を見ていると、意外にも長所って見えてくるものなんですよ。
それまでの私は、悪いところばっかり見ていたから、その人が嫌な奴に見えてただけなんですね。
で、人は必ず、何かしら良いものを持っているってことが分かってきたから、そこを褒めてあげる。
そうすると、日本人って褒めて育てるっていう教育をされてないいないから、私が褒めるとすごく喜んでくれて、その人にとって私は貴重な存在になっちゃうわけですよ。
そうすると、今まで私が悪口の対象にしていたその人が、
「えみちゃんと出会えてよかった」
「えみちゃんは私のことを褒めてくれるから、嬉しいわ」
って、言ってくれるようになって、私と会いたがってくれるようになったんです。
この時、私、自分が大切な存在なんだってことに初めて気がついたんです。
そして、「自分を愛する」って、こういうことだって、分かったんです。
で、皆が私に会いたがってくると、私、嬉しくなっちゃって、人の悪口を言うより、褒めることの方が楽しくなってきたんです。
で、今度会ったら何を褒めてあげようかなって考えると、ワクワクしてくる。
褒めてあげれば、また喜ばれるから、もっと、もっと褒めてあげたい。
何を言ったら喜ばれるかなって考えているだけで心が温かくなってきたんです。
そうなると、もう、周りの人がみんな愛おしくなってくるの。
愛が出てきちゃう。
そうしたら、私は大切な存在だけれど、そのことを気づかせてくれた周りの人も、私にとってはすごく大切な存在なんだって思えたんです。
「自分を愛して、他人を愛する」の意味が理解できたんです。
で、この時、この気づきを増長するかのような不思議なことが起こったんです。
人を人間にするのは愛のある言葉
ところで、皆さんはオーラと守護霊の違いがわかりますか?
私は、「オーラ=守護霊」だと思っていたんですが、一人さんによると、ちょっと違うんですって。
「守護霊っていうのは、一人、一人についてて、見守ってくれている霊で、人間の体を常に守ろうとしてくれているんだよ。
だけど、守護霊が体を守ろうとしているのに、タバコを吸ったり、酒を飲みすぎたり、体に悪いことをしていたら体って病気になるよね。
それと同じように、守護霊は体を守ってくれているんだけれど、こんなにいい国に生まれたのに不幸なことばっかり考えたり、悪いことばっかり考えていると、体がおかしくなるよね。
だから、守護霊っていうのは、何て言うか、自然治癒力みたいなものなんだよ。
で、オーラは全ての悪いことを遠ざけてくれるバリア。
恵美ちゃんは考え方を変えただけで、秋はおいしいになっただろ。
ということは、考え方が悪かったんだよ。
悪い考え方を変えたら、オーラが大きくなって、秋はおいしいになったの。
人間が不幸になるのはなんでかって言うと、まず肉体が悪くなるのは食べ物が悪いんだよ。
だけど、もう一つ、考え方が悪いとオーラがちっちゃくなる。
どちらが欠けても不幸になっちゃうんだ」
で、人の考え方は言葉に現れてくるから、一人さんは言葉が大事、はじめに言葉ありきだっていうわけですよ。
「俺たちは、幸せになるために修行しに、この世に生まれててきた。
その修行っていうのが、口の利き方、言葉の使い方なんだよ。
人間の全ての臓器の中で、自由になるのは肺だけなんだ。
胃や心臓は自分の意志で速く動かすなんてことはできないけれど、肺は、息を吸って、吐いて、ってできるよね。
この肺の延長が口。
口も自由がきくよね。
で、悟りという字は、心(りっしんべん)に五、口と書く。
五本の指で自分の口を指すんだ。
口が分かれば悟る。
だから悟りとは、口を言うんだ。
口の中に入れるものは吸うもの、食べるもの。
これを間違えると病気になる。
それから口から出すものも大事。
秋は寂しいなって言ってた頃より、秋はおいしいなって言っている今の方が幸せだろ。
でも、出す言葉が間違っていると、不幸を呼ぶ。
要するに、不幸という現象は口から出す言葉なんだよ」
で、私の秋は寂しいは私の心に愛が無かったせいじゃなく、愛のある言葉を口から出していくってことができていなかっただけなんだって。
「人間っていうのは一人じゃ生きられないんだよ。
人っていう字も支え合っている。
人間っていうのが人の間ってことだから、前にも後ろにも左右にも人がいる、要するに色んな所に人にがいるのが人間なんだ。
だけど、人間が人間じゃない場合もある。
人だけの場合、要するに、前後だけで、横がないこともあるの。
でもね、本当は、人はいっぱいいるんだよ。
例えば、田舎の方へ行くとぽつんと離れて建っている家があるよね。
よく、あんな場所で寂しくないなって言うけれど、寂しくないの。
みんな、村の仲間同士結構仲良くしているんだよ。
秋になると芋煮会なんかやったり、秋祭りがあったりして、人間として生きているから寂しくないの。
寂しい時って、人になっちゃってる。
どっか我が出てて、人の事を傷つけるような事を言っちゃう。
その数が多いほど、人に嫌われるんだよ。
だけど、人は言葉一つで喜んでくれたり、自分のことを好いてくれたりするんだよね。
えみちゃんは人付き合いがいいから人間として生きているほうだと思う。
だから秋は寂しいという考え方をしてしまうことに問題があると思うんだけど、あの誓いを実践していると人に自己重要感を与えられるから、みんなえみちゃんに会いたくなる。
人間関係がすごく良くなるんだ」
その時、そうだったのかって、やっと分かりました。
そして、これからも愛のある言葉を口に出し、秋はおいしいでハッピー。
これでやっていくことにしました。
毒キノコに説教する前に自分の愚かさを認めなさい
「ちょっと避ければ、風くらいしかこない」
一人さんが、そういうのを信じて、できるだけその人に会わないようにしました。
そして、そういう生活が何年か続いたある日、許せなかったその人と久々の対面がありました。
でも、その時私が嫌がることを全然しませんでした。
その後も、ちょくちょく会うようになったんですが、いい人なんです。
どうしたんだろう?って思って、一人さんに聞いたんです。
そうしたら、一人さんはこう言いました。
「それはえみちゃんの愛がでかくなって、許容範囲が広くなったからだよ。
愛が大きくなるほど、自分の許容量が相手より大きくなって、相手は飲み込まれる。
だから、嫌なことをしないんだよ。
だけど、ここまで来るにはお互いが離れないといけなかったの。
それは何でかって言うと、ミサイルが飛んでくるところで対策を練っていると、死んじゃうから。
ミサイルが飛んでこない場所まで逃げて次の対策を考えるの。
一旦は離れるんだよ。
そうすれば、離れれば自分が殺されないだけでなく、相手が人殺しにしなくて済むんだよ。
で、そういう時にいなくなってあげる人のことを利口と言うんだよ。
喧嘩っていうのは売る人間がいて、買う人間がいる。
商売と同じなんだよ。
売らないか、買わないか、どっちかにすれば喧嘩にはならない。
それはいつまでもくっついても、自分が正しいんだって行っているから行けない。
離れれは、相手も避けてくれる上に、嫌味を言わずに済む。
それを、どうやってこの人を許してあげようか、とか、本当あの人はいい人なんだ、とかってやるからいけないんだ。
そんなことを言ってても、腹を立てているんだから、くだらないことを言ってる前に、さっさと離れればいいんだよ。
離れて落ち着いて、じゃあ次はどんな心の修行をしようかって考えるの。
いつまでもくっついていて、嫌な思いをして、心が乱れたままじゃん、次の対策は考えられない。
愛も大きくならないよ」
で、私の場合も一旦離れたんですが、それは同じ空間・時間を共有することを放棄するということだけでなく、頭の中からもその人の事は一切排除。
思い出話をすることはおろか、考えることもしちゃいけない。
でも、そのおかげで一人さんの人で色々な経験、修行をさせてもらい、知らない間に愛がでっかくなってきて、人を許せる人間になっていました。
ただし、だからといって、誰でも許せるわけじゃなく、今は許せる範囲の人しかいないだけなんだ、という意味で。
「その許容範囲を超えたやつが出てきたら、やっぱり許せないってなる。
消化しきれないから。
その時はどうしたらいいんですかって言うと、俺の場合は、こいつは嫌な奴だってことを見抜いて、さっといなくなる。
大体、人が人を許せない時って、自分の愚かさを相手が悪いんだってことにしている。
例えば、人を見抜けなかった愚かさだとか。
要するに、毒キノコを食べちゃったりするじゃない。
で、自分が死にそうになったとする。
その時にキノコが悪いって思うのか、毒キノコを見抜けなかった自分が悪いと思うのかってことだと、俺は思うんだよね。
で、そういう経験を気づきだと思えるのか、どうなのか。
人間っていうのは1回も失敗しないほどお利口じゃないよ。
だけど、同じ手を2度食うほど馬鹿でもないの。
だから、同じ手を二度と食わなきゃいい。
次に大体似たようなやつが出てきた時に、うまく対処すればいいの。
えみちゃんは、以前その人のことで嫌な思いをしてきたでしょ。
そうすると、このことは覚えておく。
で、次に同じような人がいたら、その空気を察知して離れる。
で、この前と同じことはやらない。
これが完全にできた時、前に出会った嫌な奴は、えみちゃんに行き方を教えてくれた人なんだ。
で、自分の知識を高めてくれた人なんだって思えた時、その時初めて人を許すことができるんだ。
だけど、本当は許すも許さないもないの。
離れていれば許せるようになっちゃう。
だって、あってもいないやつをずっと怒っているのも、これまた忍耐がいることで・・・・。
『こいつは一生許せない』
っていってても、せいぜい1年もすれば忘れちゃうの。
人間っていうのは、そんなに根気強くないんだよ」
追伸 神様が与えてくれたプレゼント
「欲」も神様が与えてくれた、大切なプレゼントです。
欲があるから人は行動します。
翼があるから私たちは行動に喜びを感じたり、努力を続けることができます。
行動の星であるこの地球において、翼はなくてはならないものだと言えます。
ただ逆に、欲で失敗する人もいます。
目先の欲に溺れて本当に大切なことを見失ったり、自分の欲だけのために行動して、その結果、相手を傷つけたりするのです。
人によってこの欲の表れ方は違います。
食欲や性欲といった生理的な欲求があれば、自己実現といった高次の欲求もあります。
神様はこの欲を正しく使いなさいと言っています。
ある時はこれを武器に人生を戦い、ある時はこれで人生を楽しみなさいと言ってるのです。
この欲の中で私が特に学びになったのは、自己重要感と群居衝動でした。
私は小さい頃から何事も積極的にやるほうでしたが、悪く言えば、何でも自分でやらないと気が済まないところがありました。
それと、「褒められたい」という気持ちがすごく強かったと思います。
だから母親に褒められるとすごく嬉しかったですし、そのために家の手伝いなども積極にしました。
そうやって、褒めてもらいたいからいろんなことをやって、それが私の行動癖に繋がったんだと思います。
自己重要感とは「あなたは大切な人ですよ」と思われたいということです。
私の場合、それが褒められたいという気持ちで出ました。
それが奉仕という行動に出た時に自己重要感が満たされたのです。
つまり、自分の「我」が奉仕に変わった時、全てがうまくいくようになったのです。
「我」が強い時は相手のことを考えなかったのが、褒めてもらいたいという気持ちから奉仕という形でその「我」を発揮しだした時、心が満たされてきたんです。
これが自分だけの自己重要感を満たす構造であれば、自分がやらないと気が済まないといったただの「わがまま」になってしまいます。
だから自己重要感を満たすためにはまず、相手の自己重要感を満たしてあげることが大切です。
つまり、周りを褒める。
すると、なぜかそれが自分の方に返ってきて、自分が褒められるようになるのです。
特に、偉くなったら周りの人を褒めないといけません。
威張っちゃ駄目なんです。
偉い人に褒めてもらうと人は嬉しいんです。
だから人は偉くなればなるほど、他人を褒めないといけないんです。
他人を褒められない人は、自己重要感が足りないから人を褒められないんです。
だから、自己重要感が欠如したまま偉くなると、人は褒めてもらおうとして威張ってしまいます。
群居衝動も同じです。
群居衝動とは、「ひとりぼっちになりたくない」という気持ちです。
だからこれは、仲間と楽しくやるための行なのです。
ひとりぼっちになれないためには他人から愛される自分を作らないといけません。
そのためには愛される自分とはどういうものかを考える必要があります。
そしてもう一つ、自分を愛してもらうためにはまず、自分から愛さないといけません。
他人を愛する気持ちを持ってこそ、自分は愛してもらえる存在になれるのです。
斎藤一人さんの話を纏めました。
皆様、いつもご精読ありがとうございます。
お世話になっております。
Youtubeのチャンネル登録よろしくお願いします。
我が儘勝手で申し開きも御座いません。
上記の赤色のボタンを押してくださいね。
お手数ですが、遠慮なさらずに押して欲しいんです。