みんなお金が好きなんです。
小学生からお年寄りまで、お小遣いをもらうと、喜びます。
お給料もらうと、喜びます。
給料上がったら、喜びます。
人の心は、お金をもらったら、喜ぶようになっているんです。
神がつけてくれたものに間違いはない
よく人から「一人さん、政治家にならないんですか?」って聞かれます。
私は、今政治家になる気はありません。
昔は、天下を取ると、大奥があって、綺麗な女の人が3000人もいたんです。
私だって、美女3000人をくれるって言うなら、総理大臣でも、何でもやります。
でも、今は総理大臣になったって、愛人一人作ると、やめさせられる時代です。
それなのに、誰がなりますか?
もちろん人に言う時は、「皆さん、立派に務めていらっしゃいますから、私の出る幕ではございません」って断ります。
何も敵作らなくてもいいからね。
でも私の本音は、そんなところなんです。
女の人の場合は、「あんたに総理大臣任せるけど、新しい洋服買ったらいけません」って言われたら、総理大臣になりますか?
ご褒美ももらえなくて、ただ働けって言われても、誰もやる気が起こりません。
そういう働き方は「神的」ではないんです。
今ろくな政治家がいないって言うけれど、ご褒美もあげないで、ろくな政治家が出てくるわけないんです。
明治、大正の頃は、立派な政治家も多かったけど、あの人達にはちゃんと愛人が何人もいたんですよ。
何もご褒美あげないで、ただ顔晴れって、食事しないで働かせるのと同じです。
「欲」って、生きていく上で大事なんですよ。
男の色情は、女に向くんです。
女の色情は、洋服とか宝石にむくんです。
それを無視して生きろって言うほうが、無茶な話なんです。
それは「神的」とは言わないんです。
世間が言っている「神的」とは、ちょっと違うんですよ。
宗教家とかは、「あなたの悪い癖を直しなさい」って言いますよね。
「悪い癖」って、「お金を儲けたい」って気持ちだったり、男だったら「綺麗な女性を連れて歩きたい」って気持ちだったり、女性だったら「洋服や宝石がほしい」っていう気持ちだったり。
そういうのを宗教家は、「悪い癖」だって言います。
それって、本当に「悪い癖」でしょうか?
神に、いちゃもんつけているのと同じではないですか?
神がつけてくれたものに、間違いはありません。
小学生からお年寄りまで、お小遣いをもらうと、喜びます。
お給料もらうと、喜びます。
給料上がったら、喜びます。
人の心は、お金をもらったら、喜ぶようになっているんです。
それを、「欲を捨てなさい」っていうのって、それこそ欲ですよ。
宗教家は「お金は捨てなさい」って言って、その捨てさせたお金、どうするのでしょう?
自分のとこに、持って来なさいってことでしょ?
「捨てなさい」って言っている本人が、お金がほしいってことですよね。
「捨てなきゃいけない欲」っていうのはね、人を殺して金を盗るとか、働きもしないで金を欲しがるような気持ちのこと。
正当な努力をして、お金持ちになることは、悪いことじゃありません。
生きていく上で、持ってなきゃいけない欲なんです。
「人生、金じゃない」っていう人がいます。
もちろん、人生、お金だけじゃありません。
他にも大切なことが、山ほどあります。
でも、今の世の中お金がなかったら、生きていけません。
それに、もしこの世にお金がなかったら、物々交換になっちゃうんですよ。
給料日にキャベツ1000個とか、もらうことになるんですよ。
えらいことになっちゃいます。
そのことを考えた時、お金のありがたみが分かります。
お金から愛される人間になりましょう。
人からも愛される人間になりましょう。
世間からも愛される人間になりましょう。
愛されるには、「愛される行為」が必要なんですよ。
愛される生き方をするんです。
中には、「金さえあれば、何でもいいんだ」っていう人もいます。
それ、むちゃくちゃな生き方です。
そういう人間の人生って、苦しい。
ケチな人って、家族からも嫌われます。
ケチな人って、ケチな人からも嫌われます。
誰からも、愛されません。
誰からも愛されない生き方をして、「孤独でもお金があればいいんだ」って、素敵じゃないですよ。
素敵に生きましょうよ。
お金からも、人からも、愛される人生を送りましょうよ。
「加速の法則」で、だんだん楽になる。
楽にならないのは、どこか間違えてる。
「強運」と、ただの「運」の違いって、分かりますか?
ただの運なら、どんな人でも、たまに来ることがあります。
でも「強運」っていうのは、落ちる時がないんです。
この講演会の話は、強運の話なんです。
偉くなった人は、みんな、「一つ上、一つ上」の努力をしてきた人です。
他の方法なんて、ありません。
ただ、「一つ上、一つ上」ってやっていると、「加速の法則」っていうのが働くんです。
だんだん上がるのが、早くなるんです。
当人は、あくまで「ひとつ上」を目指しているんです。
だけど、この「一つ上」が「10個上」に匹敵したり、「100個上」に匹敵したりするようになるんです。
だんだん上がる幅が大きくなっちゃうんですね。
私の例で言いましょう。
例えば、この「強運な話」も、昔から同じことを喋っているんです。
昔は「十夢想家」っていう喫茶店で、お弟子さんに喋っていました。
当時は、喫茶店の中にいる、数人に向けて喋っていたんです。
ところが今、全く同じ話をしているけれど、この話は本になって、CDになって、本屋さんに並んで、何万人っていう人が知るようになるんです。
私にとっては、
「目の前の人に、知っていることを一生懸命話す」
という同じ努力なんですよ。
だけど昔と今では、聴く人の数が全然違います。
これが「加速の法則」なんです。
もし、一生懸命やっていても、「加速の法則」が働かないとしたら、自分のどこかが間違っているんです。
「加速の法則」通りに行くと、世の中、だんだん楽になります。
それが、だんだん苦しくなってきたら、どこかに間違いがあるって事ですよ。
神様からの、「あなたのやってることは、間違っていますよ」というお知らせです。
その間違いの大概は「神の摂理」を無視しているはずです。
立派な事だけ言って、基礎を忘れちゃっていませんか?
男なのに、「女にモテたい」っていう気持ちを忘れていませんか?
女なのに、「綺麗になりたい」っていう気持ちを忘れちゃっていませんか?
「一つ上、一つ上」って上がろうとしないで、いっぺんに上を狙ったり、足を二つ上に出そうとしたりしていませんか?
うまくいかなかったら、「自分は何か間違っているんじゃないか」って見直してみてください。
正当なる努力は、楽しい
「私の人生、苦労の連続でした」っていう人がいます。
そういう人って、いつも、「この苦労を乗り越えたら、いいことがあるんじゃないか」って思っています。
でも、苦労すること自体、間違っているんですよ。
努力することがいらないって言ってるんじゃないんです。
正しい努力は、楽しいんです。
正当なる努力は、やってて自分も楽しいし、世間も認めてくれます。
世間も認めてくれない、何もかもうまくいかない、そんな苦しい努力だとしたら、間違っているんです。
神様が「今やっていることは、やめなさい」って言ってる事なんです。
神様からのお知らせなんですよ。
「1+1=3」と書いていたら、「それ、間違っていますよ」って天からお知らせが来るんです。
でも、そのお知らせに気付かずに、ずっと「1+1=3」と書き続けるとします。
そうすると、何らかの方法で注意されます。
それでも直さなきゃ、怒られます。
それでも直さなきゃ、その次はもっと怒られるでしょう。
だんだん、忠告が、ひどくなるんです。
そういう時は、前と違う答えを出してみるんです。
「1+1=4」にしてもいい。
「1+1=5」にしてもいい。
そうやって前と違うものを出していくうちに、「あれ? これ、数字を戻して2にしてみようか」って気づく。
それで正解に気づくんです。
正解がわかって、やっていることがピタッとはまるようになると、人も認めてくれるし、世間も認めてくれます。
だから私は苦しくなった時は、「この苦しみを乗り越えたらうまくいく」なんて言いません。
「俺はどっか間違えてるところがあるんじゃないか?」って立ち止まって、見直すんです。
そうすると、必ずあるんです、間違いが。
その間違いを直せばいいんです。
「苦しくても、我慢して乗り越えました」っていう人がいます。
でも、そういう人は、苦しいことを、ずっと続けてきたんじゃありません。
本当は、途中でどこか、やり方を変えたんです。
いろいろやってみて、いいことに到達して、それを続けて成功したんです。
必ず途中で、改良しているんです。
一番いけないのは、間違った答えをそのまま変えないことです。
間違ったことを変えないで、頑固に通そうとすると、天からの忠告が山のように押し寄せます。
自分の考えは、全て正しいと思ったらダメです。
百発百中で当たることは、まずありえません。
「どうやら間違っているな」って気づいたら、すぐ改良するんですよ。
斎藤一人さんの話を纏めました。
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