コンクラーベ

斉藤一人さんです

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斉藤一人さん 修羅の道に遊ぶ

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「これしか駄目だよ」

と言ってしまうと、人というものは元気がなくなってしまう。

これでは、人は動けない。

 

修羅の道に遊ぶ


少し難しい話なので、長い間、人に語ることをためらっていた話があります。

その話はどんな話かと言うと、「修羅の道」の話です。

修羅の道というのは、火炎地獄と氷地獄のような世界があって、その中間にある、細く、曲がりくねった道のことを言います。

火炎地獄によれば身体が焼かれ、氷地獄によれば凍りついてしまう。

でも、この修羅の道に入れば、体が焼かれることも、凍りつくこともない。

そして、この修羅の道こそが、成功の道です。

例えば、サプリメントがそうかもしれません。

薬と食品の接点にあるものがサプリメントです。

それが、多くの人たちの支持を得て、大きな産業になっているのは修羅の道を行っているからです。

ところで、世間では、成功するには、自力で歩き、人と競争し足の引っ張り合いをすることが必要だという考え方が主流ではないかと思いますが、この修羅の道ではそんなものは必要ありません。

この修羅の道は、いうなればジェット気流のようなものです。

ちなみに、ジェット気流というのは、暖かい風と冷たい風の間を、時速300kmぐらいの速さで走る風のこと。

このジェット気流に風船を乗せれば、遠くアメリカまで飛んでいくんだそうです。

修羅の道もそれと同じです。

この道に乗りさえすれば、あとは勝手に成功へ導かれてしまいます。

勝手に導かれてしまうのだから、駆け足する必要もありません。

足の引っ張り合いも、夜討ち・朝駆けもいらない。

すごく良い道なのですが、この道は、ど真ん中の1車線ではないんです。

3車線のある高速道路みたいなものです。

その道に乗っている限りは、走行車線を走ったり、追い越し車線を走ったりしながら、自由なドライブが楽しめる。

そして、そういうドライブを楽しめた人が成功するんです。

少し、分かりづらかったでしょうか。

申し訳ありません。

私がお弟子さん達に話をしたり、本を書くときは、できるだけ分かりやすくするようにしているつもりですが、それでも、曖昧な部分や矛盾点が残ってしまい、

「よくわからないなぁ」

と、言われることが多々あります。

そのことについて、言い訳するつもりはありません。

でも、私は、人間には、曖昧さというものは必要なのではないかと思うんです。

それは、なぜか。

「これが正しいから、このやり方一本で行きなさい」

ということは、トラックに最高で時速80kmのスピードしか出せないようなエンジンをつけることと同じことになってしまうんです。

道路は平坦ではありません。

坂道があるんです。

その時々の状況によって、前方を走る車を追い抜かなければならない時もあります

にもかかわらず、トラックが80キロしかスピードを出せなかったら、そのことが渋滞や事故を引き起こすことにもなりかねないんです。

理論的には最高速度80キロでいいのかもしれません。

でも、現実は理論が通用しないことがたくさんあるんです。

だから、多少の幅が必要なんです。

車のハンドルもそうです。

アクセルもブレーキも、みんな遊びがついています。

これがあるから、車はスムーズで安全な走りができるんです。

人間も同じです。

遊びが必要なんです。

話の内容を明確にすることは簡単です。

80キロしか出せないエンジンをつければいいんだから。

でも、

「これしか駄目だよ」

と言ってしまうと、人というものは元気がなくなってしまう。

これでは、人は動けない。

だから、成功の道を狭めて、完璧に成功に導こうとしたら、失敗の道になってしまいます。

曖昧さが必要なんです。

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勝ち負けは、常に目の前にある


「勝ち負けは、常に目の前に出てくるよ」

私は、よく、そんなことを弟子さんたちに言います。

どういう意味かと言うと、決算時期や長者番付発表時、あるいは人事異動の発令、入試の結果発表といったイベントの時にだけ、勝ち負けが明らかにされるのではなくて、日々、あらゆる所で勝ち負けが出てくるんだ、ということです。
なぜ、私はそんなことを言うのか。

それは、私が考える成功者の定義は、世間の人たちが考えるものと少し違っているからです。

世間では、一流企業に勤めたり、出世したり、自分で商売をやってお金を儲けたりといったことを実現した人たちのことだけを「成功者」と呼んでいますが、私はそうは思わないんです。

人間の肉体が滅んで、魂が故郷である天国に帰る時、肩書きやお金、この世で身につけたものは、全てこの世においていかなくてはいけないんでしょ。

だから、私は、こんなことを言うんです。

「天命を全うするものが成功者だ」

ちなみに、天命とは、人間がこの世に生まれてくる時に、神様と交わした約束のこと。

人には愛のある言葉をかけ、笑顔で接する。

それが天命であると、私は勝手に決めさせていただいています。

なぜ、人がこの世に生まれ出てくる時に、神様とそういう約束をしてくるのか。

「神様は笑顔で愛のある言葉を話す人間を欲しているからだ」

というのが、私の持論です。

神様は、草や木、虫や鳥、人間、この地球上にある、ありとあらゆるものを創ってくれました。

でも、神様にも、できないことがあるんです。

神様は、地震の大いなる愛を表現することができないんです。

それを表現するのは、笑うことができ、言葉を話すことができる人間しかいない。

だから、神様は、人間がこの世に生まれてくる時に、人間にこうお願いするんです。

「自分の代わりに、笑顔で、愛のある言葉を喋ってきてくれよ」

その願いを実現しようとする人は、神様のお役に立つ人だから、なんでも望みを叶えてくれる。

だから、私にとって、神様は、おすがりの対象ではないんです。

自分が神様の役に立つんだ、と考えて、この天命を守っていればいいんだ、と思うんです。

この天命を守れば、敵を作りません。

会う人すべてを自分の味方にすることができますから、会社でも、商売でもうまくいきます。

家庭でも、学校でも、人生、すべてがうまくいく。

例えば、お金持ちになれなかったとしても、天国に戻った時、神様に、

「前の自分より、笑顔で愛のある言葉を話せるようになりました」

と、報告できるんです。

どの点を「成功」と捉えるかは、個人の自由です。

社会的な成功を得たことのみを捉えて、「自分は成功者だ」ということもできます。

精神的な成功を得たことのみを捉えて、「成功者だ」と言うこともできる。

この二つを得たことを成功と捉えることもできるんです。

だから、成功者の定義は幅が広い。

ありとあらゆるところに「勝ち」があります。

「笑顔で愛のある言葉を話すぐらいのことで成功できるなら、誰も苦労はしないよ」という意見があるのも知っています。

そう思っていただいても、私には何の不都合もないから、別にいいんです。

でも、いつも笑顔で愛のある言葉話すということは、実際やってみると、意外と楽なことではないということが、わかるはずです。

まず、いつも笑顔でいると、顔の筋肉が疲れます。

「ついてる」という言葉を頂いたけれど、なかなか口から出てこないこともある。

人を褒めようと思っても、どこを褒めていいのか悩んでしまう人も目の前に現れるんです。

常に、自分との戦いです。

そして、その部分に勝ち負けが出てくる。

日々、あらゆるところで勝ち負けが出てくるとは、こういうことです。

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「世の中に簡単なものはない」という事実を受け入れられるか否か


いつも笑顔で、愛のある言葉を話す、という修行。

それは、色々な事情が出てきた中で、幸せを感じられるか否かにかかっていると、私は考えています。

私は、本当に自分のことをついてる人間だと思います。

定食屋さんで納豆定食を食べていても、高級レストランでフレンチを食べている時と同じぐらいの幸せを感じることができます。

缶コーヒーを飲んでいても、キリマンジャロの空の下で、コーヒー豆の農園で働く人たちが喜ぶ顔を思い浮かべては、

「自分も役に立っているんだな」

と、嬉しくなってしまいます。

そういう性格に生まれついてしまったことを、ついてると思っています。

そう言うと、

「私には斉藤さんのような感性がありません」

という人もいるんですが、本当にそうなのでしょうか?

感性というものは、徐々に研ぎ澄まされていくものなんですよ。

例えば、食事時に、ご飯とアジの開き、漬物しか食卓に並ばなかった。

「なんだ、この食事は」

と文句を言っていた、と。

でも、お米を作ってくれる人がいるから、そのご飯を食べられるんですよね。

お米というのは、八十八の手間がかかるというぐらい、手間のかかる作物なんです。

田を耕し、水を引き入れ、苗を植え、害虫の駆除をしといった作業を、自分の代わりにしてくれる人がいるんです。

簡単なご飯なんかないんです。

漬物だって、干物だってそうです。

簡単にできる漬物も、干物もこの世に存在しないんです。

ものすごく大勢の人が関わり、手間のかかったものが何品も並んでいる、という事実。

これを知った時、その食事は豪勢極まりないディナーに思えるんです。

だから、「感性が豊か」とは、この世の中には簡単なものなど一つとしてない、という事実を、事実として受け入れられるかどうか、ということだけなんです。

もちろん、世の中には色々な人間がいますから、この事実を事実として受け入れられない人もいるかもしれない。

でも、人間は生きている以上、何かを学ばずにはいられない動物です。

そのうち分かる日が来ると信じ、今、与えられた人生で学び続けていけばいいんです。

たとえ、この人生でわからなくても何の問題もありません。

人から聞いた話ですが、人間というものは、10万回生まれ変わるのだとか、10万回のうち何回かは、そういう人生があるんです。

でも、人は何回も生まれ変わりながら、魂的な成長を遂げていくんです。

成功の道を歩き続けていることに、なんら変わりはないんです。

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人を救うのは人間


成功の道を歩き始めた皆さんに対して、はなむけの言葉になるかどうかはわかりませんが、私の好きなおとぎ話をご紹介させていただきます。

ある男の人が浜辺に横たわり、ぼんやりと空を見上げていました。

その時、今まで自分は人生の道をどうやって歩いてきたかが、走馬燈のように浮かんできました。

そして、男の人が今までの道のりを振り返り見た時、そこに二つの足跡があることに気がつきました。

男の人は、こう思いました。

「自分は、神様と一緒に歩いてきたんだな」

ところが、道の所々で、足跡がひとつになっていることに気がつきました。

足跡が一つになっているのは、足跡が一つになっているのは自分が苦しんでいた時、悲しい思いをしていた時でした。

男の人は、空を見上げて、こう言いました。

「神様、どうして私が辛い時、悲しい時にお見捨てになったのですか」

その時、空からこんな声が聞こえました。

「子よ、それは違う。

お前が苦しい時、悲しい時に、私はお前を背負って歩いていたんだよ。

だから、足跡がひとつなんだ」

この話を聞いた人は、ほとんど感動します。

私も感動します。

ですが、もう一つだけ、最後に言わせてください。

観音様という菩薩がいます。

この観音様は、人間も含め、地上にある、ありとあらゆるものを救う菩薩だと、言われています。

でも、観音様が誰かを救おうとしても、自ら手を差し伸べることはできません。

では、どうやって救うのか。

観音様の化身という人がいるんです。

観音様の化身が、観音様に成り代わって、人を助け、草や木を救うんです。

では、その化身とは何か。

昔、私が観音参りをしていた時、道中、足を痛め、道端で休んでいたことがありました。

その時、見知らぬ老夫婦が近づいてきて、私の足をさすり、

「大丈夫ですか? 痛かったでしょう」

と、言ってくれたんです。

私は、この人たちこそが観音様の化身だと思います。

何を言いたいのか。

人を救うのは人間である、と。

そして、世界で一番、自分のためにがんばってくれる人は、自分しかいないのだ、と。

長々、私の変な話に付き合ってくださいまして、心から感謝申し上げます。

皆さんに、すべての良きことが、雪崩のごとく起きますように。

 

斎藤一人さんの話を纏めました。

 

皆様、いつもご精読ありがとうございます。

 

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