「国褒め」「物褒め」「命褒め」をしていると、こんなふうに神様の知恵がどんどん降りてきていいことがどんどん起こるのです。
自分に必要なことが見えてくる
皆さんは、「つきがどんどんやってくる」と聞くと、どんなことを想像しますか?
私たちが言う「つきがどんどんやってくる」というのは、「いつでも、どこでも、良いことがたくさん起こること」を言います。
じゃあ、宝くじを買えば、どんどん当たるし、パチンコをすればじゃんじゃん儲かるのかって?
そういうこともあるかもしれませんが、私たちの言う「つき」とはちょっと違います。
「物褒め」をしていると、こんなことがありました。
家には壊れた時計があったのです。
落としてしまって、動かなくなったものをそのままにしておいたのです。
「物褒め」を始めて何日かすると、その時計がすごく寂しそうにしているのに気がつきました。
思い返してみると、その時計は何年も私のために時刻を教えてくれていたのです。
それを「もう壊れちゃったんだ」と思って、直そうともせず、そのまま放っておいたのです。
「ごめんなさいね」と謝りました。
そして、なんとかしって動くようにしたいと思って分解掃除をしてみたのです。
と言っても、私はまるで機械音痴。
分解したところで、何がどうなっているのか全然わかりません。
でも、とりあえず分解して、元通りに組み立てたら、なんと直ったのです。
時計が「直してくれてありがとう。また一生懸命働くよ」と言ってくれている気がしました。
それから何日かして、スポーツジムに行くと、またそこの時計が止まっていることに気がつきました。
そこで、事務の人に時計を降ろしてもらって調べてみると、電池が切れていたのです。
ジムには電池のストックがなかったのですが、その時たまたま私が電池を持っていたので、それを入れたら動き出しました。
「なんだか最近、時計ばかり直しているな。なぜだろう」と思いました。
そうしたら、ある本に出会ったのです。
その本には、私たちが死んだらどうなるかということが書いてあったのですが、それによると、私たちは死んだあと、魂が肉体から離れ、魂だけの世界に戻るらしいのです。
魂の世界には、「時間」というものがなく、思ったことがすぐ叶うと書いてありました。
つまり、「あれが食べたいな」と思えば、すぐ食べられるし、「あの人に会いたいな」と思ったら、すぐに会いたい人に会えると言うのです。
ところが、私たちが今生きている世界は、思っただけでは何も実現しません。
「プリンが食べたいな」と思ったら、買いに行くか、自分で作らない限りは食べられないわけです。
「あの人に会いたい」と思ったら、会いに行かなければなりません。
それだけの「時間」をかけなければ、思ったことは実現できないのです。
あの世とこの世の違いは、「時間」があるかどうか。
だったら、この世をあの世に少しでも近づけるために、実現するまでの「時間」をできるだけ短くすることです。
それに気付いた瞬間、私は「時間」の大切さを神様が教えてくれたのだと思いました。
実を言うと、それまでの私は少し時間にルーズで、遅刻もしばしば。
「今日はこれだけやろう」と思っても、1日のスケジュールをこなせない時もありました。
ところが、神様に時間の大切さを教えてもらったとたん、全ての行動が変わりました。
「やろう」と思ったら、すぐに行動に移すようになったのです。
行動するのが早ければ早いだけ、さっさと片付ければ片付けるほど、形になるのは早くなります。
「私は今まで何をしていたんだろう」と、深く反省しました。
そうすると時間の神様も味方してくれるのです。
会社を出るのが遅くなって、いつもなら予定の新幹線に乗るのは、「絶対無理」なはずなのに、通る信号、通る信号全部青で奇跡的に予定の新幹線に乗れてしまったり・・。
その他、驚いたのは目標達成のアイデア知識などもどんどん出てきて、なんとその達成のためのシンクロ現象さえもばかばか起きてきたのです。
「国褒め」「物褒め」「命褒め」をしていると、こんなふうに神様なの知恵がどんどん降りてきていいことがどんどん起こるのです。
宝くじで当たるのも、パチンコで儲けるのもいいけれど、それはその時だけのこと。
でも、本当の「つき」というのは、そんな一過性のものではないのです。
これまでの人生を変えるようなことが起こります。
「えー?」と、眉に唾をつけながら読んでいる人、あなたはまだ行っていないからです。
「3褒め」をやってみてください。
あなたにも神様から知恵がどんどん降りてきて、信じられないようなことが起こるはずです。
命あるもの全てに感謝する「命褒め」
命は生きているものすべてにあるのです。
私たちのまわりにある、木や鳥、虫や動物は、すべて命あるものです。
命・・・・・この字には、もう一つ意味があります。
日本には八百万の神がいますが、須佐之男命、大国主命など、名前の最後に「命」とつく神様がとても多いんです。
命には「神様」という意味もあります。
つまり、命あるものはすべて神様なのです。
昔、一人さんには「神様って、いるんですか」と聞いたことがあります。
そうしたら、一人さんはこう答えました。
「いるよ。神社に行って、本殿の奥を覗いてごらん。そこに神様が見えるから」
そう言われて、のぞきました。
でも、そこにあるのは丸い鏡。
神様なんて見えません。
だから、言いました。
「一人さん、奥を覗いても鏡しか見えないんだけど」
「そこに何が映ってる?」
「え? 私が映ってる」
「そうだよね。鏡から『ガ』を抜くと、『カミ』になるだろう。えみちゃんも『私が』『私が』という『我』を抜いたら神になれるんだよ」
びっくりしました。
つまり、私たちの中には「命」という神がいるのです。
え? 私の周りには、とても神とは思えない人がいっぱい?
私もそう思ったことがありました。
嫌いな人もいました。
でも、「国褒め」「物褒め」「命褒め」をやっていると、だんだん嫌いな人が居なくなっていくのです。
なぜかと言うと、「国褒め」「物褒め」「命褒め」は「いいとこ」探し。
いいとこを探す癖がつくと、人に対しても、欠点より長所が見えてくるんです。
で、それを口に出して褒めると、相手だって、嫌な気持ちはしません。
そうやって、どんどんいい人が増えていくのです。
そうしたらもう、自分の周りはみんないい人ばかり。
それって、天国みたいな状態だと思いませんか?
確かに人を褒めるって、難しいです。
だから、「命褒め」もできそうなところから、少しずつやっていきましょう。
大丈夫、続けていけばきっと天国が待っています。
「美味しいね」と言って食べよう
今日は何を食べましたか??
ご飯に鮭の焼いたの、納豆、わかめのお味噌汁?
それとも洋風にトーストにハムエッグだったでしょうか?
私たちは食べ物を食べて生きています。
食べないと死んでしまいます。
そして、私たちが食べる物って、みんな「命」あるものなのです。
私たちは皆、命を頂いて生きているのです。
ご飯なんて、米粒一つ一つが命。
たらこなんて、数え切れないほどの命の塊です。
タラコのおにぎりなんて、いったいいくつの命をいただいていることか!!
ご飯を食べる時、「よく噛んで食べなさい」と言いますよね。
「噛む」とは、「神を迎える」ということなのです。
そんなことを考えたら、「これはまずい」とか、「これは嫌い」なんて、もったいなくて言えなくなるでしょう。
食べる時は、なんでも「美味しい」。
これがまず最初の「命褒め」です。
「美味しいね」
「これ、体にとってもいいんだよね」
「毎日ご飯が食べられるなんて、ありがたいね」
こんなことを言いながら食べると、食べたものは体の中で良いエネルギーに変わります。
反対に文句ばっかり言って食べたら、それは体の中で毒になります。
文句ばっかり言っていると、本当に病気になってしまうのです。
それに食べ物だって、その人に文句を言えるために命を絶ったわけではありません。
なんでも「美味しい」といただく。
これが「命褒め」の基本です。
「まずい」なんて言ってはいけません。
料理を作る人の腕のせいでまずかったら?
そうだとしても、素材が不味いわけではないのですから、言わない方がいいのです。
「今日の私には、ちょっと合わないかも」ぐらいにしておきたいものです。
料理が失敗したことは、作った人にだってわかっているかもしれないのです作った人にわかっているかもしれないのです。
それをわざわざ「失敗だね」と言う必要はありません。
そんな時こそ、「美味しいね」と言って食べたら、料理した人はきっと「優しい人」と思うに違いありません。
私はこの「命褒め」を始めてから、食べるものを「あれも」「これも」と買わなくなりました。
それまではついつい買い込んね、結局食べきれず、腐らせてしまったり、カビを生やしてしまったりして捨ててしまうこともあったのですが、今はそんなことはしません。
大事に、大事にいただきます。
だから今、とっても体の調子がいいんです。
追伸 神様の知恵はタダ
れと、行動の星に来て行動しないのは間違いなの。
大我とは何ですかというと、どこから出発しても「目的が正しい」という舵があるんだよ。
この舵なくして走ると、とんでもないところに行っちゃうよ。
そんなとんでもないところに行って失敗している人を見てるから、恐れて行動できなくなるんだよな。
だけど一人さんは、仕事を始めてから一ヶ月も赤字を出したことがないんです。
成功し続けているんです。
そして、その方法でをタダで教えているんだよ。
何故かって言うと、私もタダで習ったからね。
お金を払って習ったんじゃないんだよ。
神様が知恵をくれる。
自分には何もないと思ってたけど、自分にも知恵がある。
自分によかれ、他人によかれって大我に合わせてると、大我から知恵が来る。
こんな凄い事をが私たちにはあるんです。
だから下駄屋から始めようが、八百屋から始めようが、何でも改良なの。
それで、大きい事業家になろうと思ったら、どんな仕事をしてもいいんです。
成功者って「元からその仕事ですか」って、そうじゃないよ。
いろんな仕事に移りながらこうやって、やってくるの。
だから何でもできるんです。
なんでも改良なの。
要するに、今より少しでもいいことを考えればいいんだよ。
お客さんにとってね。
私たち商人はお客さんに奉仕する生き物なんだよ。
それで喜ばれた量が売り上げになって返ってくるの。
だから、喜ばれないようなことをしていてはダメなんです。
ラーメン屋でまずくてお客さんが来ないのに「この味で行きます」って、あなたは良くてもお客さんが迷惑なんです。
だから、もう少し美味しいものを作ってください。
列なすほど美味しいものを作って下さい。
そしたら楽しいし、お客さんにも喜ばれるんです。
それで、「これを当てたから、これで一生行きます」って言うのも人生です。
だけど、いろんなことを改良できるのだとしたら、何をやっても成功します。
次のチャンス、次のチャンスって、必ず与えられるんです。
無から初めて成功する人っていっぱいいます。
すごいお金持ちになる人がいるんです。
そういう人達って大概、ひとつの仕事じゃなくて、次、次ってやってくるの。
これが神のチャンスなんです。
これこそが「無から有を生む」ということなんです。
斎藤一人さんの話を纏めました。
皆様、いつもご精読ありがとうございます。
お世話になっております。
Youtubeのチャンネル登録よろしくお願いします。
我が儘勝手で申し開きもございません。
上記の赤色のボタンを押してくださいね。
お手数ですが、遠慮なさらずに押して欲しいんです。