だから離婚はおめでとうと言う
- 「飽きた」ということは、「無事に卒業できた」ということです
- 「新しい人との出会い」より「親しい人との付き合いが」大事です
- 「空を飛べるやつ」より「道端で咲いてる花」の方がずっと偉い
- 才能は「もらいもの」。だから威張らずに感謝してください
- 「威張るなよ。威張っちゃだめだぞ」
「飽きた」ということは、「無事に卒業できた」ということです
この言葉もそんな独特の考え方を表したものの一つです。
例えば、最近、私の身近な人間が離婚したのですが、このことが影響して、私も少し悩んでいました。
そのため、眉間にしわを寄せて、深刻そうな顔をしていたのだと思います。
それを見て、一人さんが、
「どうしたんだ、そんな暗い顔して」
と尋ねてくれました。
そこで、「実は」と離婚の件について話したところ、一人さんとお弟子さんとが、私に向かっていきなり、
「おめでとう」
と言ったのです。
出し抜けに予想もしなかったことを言われ、私は呆気に取られてしまいました。
私も戸惑っている様子を見て、一人さんはこの言葉の意味を説明してくれました。
「離婚ということは困ったことでも何でもない。
それは、卒業するということだよ。
なんでも、飽きるということは卒業だということなんだ。
神様が『それはもうやらなくていいよ』と知らせてくれているんだよ。
離婚するのも結婚に飽きたということなんだから、結婚を卒業したということなの。
つまり、めでたいことなんだよ」
普通、飽きるということはいけないことだと思いがちです。
例えば、野球の選手を目指していた人が、「野球に飽きてきたな」などと言うと、「飽きっぽいやつ」だとか「根性がない」などと言われるものです。
つまり、飽きることはいけないことだというのが、常識のようになっているわけです。
でも、一人さんは、飽きるということを肯定的に考えます。
飽きるということを、仮に良くないことだと考えたところで、その気持ちを考えられるわけではありません。
いくら悩んだところで、「飽きた」という状態は変わらないのなら、否定的に考えて気分を落ち込ませる分だけ、人生にとってはマイナスになってしまいます。
それならば、「飽きた」ということを卒業だと考えて、肯定的な心持ちでいた方が、はるかに有意義です。
同様に、離婚も「結婚に飽きた」ということなのだから、卒業だと捉えます。
このように肯定的に考えてしまった方が、人生にとってプラスに作用するからです。
だから、離婚は「おめでとう」ということなのです。
「新しい人との出会い」より「親しい人との付き合いが」大事です
人脈をすぐ自慢して、それで商売がうまくいくこのように言う人がいます。
でも、斎藤一人さんの場合、人脈に関しては、商売を始めた頃から今日まで、ほとんど変わっていないようです。
今のように長者番付一位になるようになってからも、例えば大物財界人や有名人との付き合いなどは、全くないそうです。
これほど授業が大きくなっても顔を広くしようとしないので、「変わっている」と言われることもあるようです。
ただ、一人さんは、
「ただの顔見知りがたくさんいても、何の役にも立たない」と言います。
それよりも、もっと大切な人間関係があるということです。
一人さんはよく、
「身近な人に何かあったら駆けつけろ」
と言います。
例えば、自分が本当にして親しくしている取引先があったとします。
その人が何かで困っていたら、すぐ駆けつけるわけです。
無理に作った人脈などよりも、自然に親しくなっていった人たちを大切にする、そのような人間関係で十分だということなのです。
一人さんは、どんな時にも、自分の目でじっと見て物事を判断します。
大物と呼ばれる人たちの付き合いについても、同じようにして判断しているようです。
一人さんはこう言っています。
「それが本当に凄い人なら、俺も話を聞きたい。
でも、じっと見た時にそういう気にならないんだ」
どれほど大物だと言われている人でも、どれほど世の中が大騒ぎしていても、それには左右されずに、自分の目で判断するわけです。
一人さんが自分の目で見て判断するのは、人物についてだけではなく、世の中の全ての事について当てはまるようです。
例えば、これは映画『タイタニック』が大ヒットしていた頃のお話です。
一人さんは、お弟子さん達と一緒にこの映画をビデオで見ていたそうです。
日本中を感動の渦に巻き込んでいた大作ですから、ストーリーが進んでクライマックスに差し掛かる頃には、お弟子さん達は感動して涙を流していました。
すると、一人さんだけが、こんなことを急に言い始めたそうです。
「なんで、お前らはあれを見て感動するんだ」
恋人の男は凍え死ぬ。
最初結婚すると言っていた男は裏切られる。
挙句の果てに船は沈んでしまう。
「こんな酷いさげまん女の話に感動なんかするな」
と言ったそうです。
ちなみに、一人さんが好きな映画は、「寅さん」シリーズや時代劇のような人情ものです。
義理人情を大切にすることは、一人さんの信念だからです。
一人さんは、自分の信念を忘れません。
例えば、まるかんの商品には、「銀座まるかんGN」と書いてあります。
私には最初、この「GN」というのが何の意味がわからなかったのですが、あれは「義理」のGと「人情」のNだったのです。
「いつも義理人情忘れるな」という一人さんの信念から、商品に「GN」といれているわけです。
さて、お話を『タイタニック』へと戻します。
男を次々と不幸にするヒロインに腹を立てるのは、一人さんの人生観からすると、当然の反応ではあります。
でも、それを言ってしまったのは、場合が良くありません。
感動の涙を流していたお弟子さんたちはすっかりしらけてしまい、一人さんはみんなに怒られたそうです。
もちろん、これはただの笑い話です。
でも、このように、ひとりさんがどんな時には周囲の騒ぎには左右されずに、すべてを自分の目で見て判断するということは、確かなことです。
自分の目で見て判断すれば、無理な人間関係を作ることなど、不要だということがわかります。
そして、自分の目を信じることが、どんな時にも大切だということを、忘れないようにしたいものです。
「空を飛べるやつ」より「道端で咲いてる花」の方がずっと偉い
斎藤一人さんは、不思議な話をよくしますし、不思議なことが好きです。
でも、精神世界のことをやたらと人に教えたがったり、特別な能力をありがたがるのは、嫌いなようです。
そのような人が現れたら、一人さんはこう言います。
「それが何なんだよ」
その理由はこうです。
「空中浮揚だろうが、スプーン曲げだろうが、そんなもんありがたがるなよ。
そんなもんを見たら、こう言わなきゃいけない。
『それは何かの役に立つんですか。
物を運んでくれるんですか。
その場合、家の商品を運んでくれるんですか。
クロネコヤマトとどっちが安いんですか』
だって、こんなもの、全然偉くなんかないんだよ。
それよりも、汗かいて働いている人の方がずっと偉い。
こんなもの、すごくなんかないの。
道端で咲いてる花の方が、本当はずっとすごいんだよ」
つまり、一人さんにとって、いわゆる超常現象などは不思議でもなんでもなく、人や植物や動物など、自然にあるものがそのように存在していることこそ、不思議なのだということなのです。
才能は「もらいもの」。だから威張らずに感謝してください
また、斎藤一人さんはこうこうも言います。
「威張るなよ。威張っちゃだめだぞ」
手柄になるようなことをすると、それは自分の力だと思って、どんなに気をつけていても、多少は傲慢になったりするものです。
でも、一人さんに言わせれば、
「自分の才能なんか、自分の手柄じゃない」
ということになるのです。
同じように、不思議なことを知ったり、不思議なことをできたりするのも、自分の手柄ではありません。
この「威張るなよ」という言葉は、そういう意味です。
一人さんにも、誰も分からないようなことを知っていたりする不思議なところがありますが、そんな時にも、威張ったりすることはありません。
例えば、一人さんは昔、バブル絶頂の頃に、「土地なんか買うなよ」とみんなに言っていたそうです。
そのうちバブルがはじけて、案の定、地価が下がり始めました。
この時、みんなを不思議に思い、
「何で土地を買っちゃいけないってわかったんですか」
と聞きましたが、一人さんは、
「なぜか、わかるんだ」
としか、言わなかったそうです。
もちろん、そこには一人さんなりの理屈があったはずです。
でも、それは言いません。
言えば、威張ってるようになるからです。
ところが、精神世界の話をしたがる人などは違います。
そうした人たちは、一人さんとは正反対で、「なぜか」という部分を追求し、その理屈を言いたがるわけです。
例えば、「宇宙とは」とか「波動」がといった具合に、彼らの考えた壮大な理論はなるべく多くの人に聞いてもらおうとします。
けれども、一人さんは不思議な話をするときにも、理屈については一切言わずに、
「なぜか、わかる」
だけで、終わらせてしまいます。
実は、一人さんが良くする不思議な話についても、一人さんなりの理屈があります。
でも、それは言わないわけです。
そんな理屈よりも、「ありがとうございます」や「感謝しています」という言葉の方を、一人さんは大切にしています。
その理由を斎藤一人流に言うと、こうなります。
例えば、そこに様々な理屈があったとします。
でも、その理屈をどこまで突き詰めていったとしても、結局、本当のところは分かりません。
ここで、一人さん独特の「神様」という概念が出てくるわけです。
「全ては、神様から与えられたものなの。
何かが分かるというのも、何かができるというのも、突き詰めていけば、全て神様から与えられたからなんだよ」
ということになるのです。
みんながわからないことをわかるのも、みんなができないことができるのも、別に、自分の手柄ではありません。
なぜなら、全ては神様が与えてくれたものだからです。
自分のセンスや才能というのも、神様からもらったものです。
一人さんが不思議なことを知るセンスや才能も、また、神様からもらったものですから、尿必要がないということになります。
それよりも、感謝の気持ちを持つべきだというのです。
だから、一人さんはいつも、
「なぜか、わかる」
と言って、そこで終わらせてしまうわけです。
理屈を言わせればあるけれども、そんなことを聞いたところで、誰も嬉しくありません。
それよりも、「なぜか、分かる」と言われた方が、返って感じの話を楽しく聞くことができます。
一人さんの理屈は自分だけを納得させるための理屈で、人を納得させるためのものではないのです。
自分が手柄を立てようが、人にできないことをやろうが、決して威張ったりしない人間でありたいものです。
斎藤一人さんの話を纏めました。
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