悟りとは「差取り」だからね
古代のインドに、子供を病気でなくしたお母さんがいました。
ところが、そのお母さんは現実を受け入れられず、冷たくなった我が子を抱いたまま、「子供を助けてください」とお釈迦様にすがったの。
お釈迦様は言いました。
「過去に1人も死者が出ていない家で、ケシ(薬用植物)の種をもらっておいで」
お母さんは、これで子供が助かると喜び、街へ飛んで行った。
ところがね。
探せど、探せど、人が死んだことのない家はない。
昔の話だから、どの家にも高齢者はいたし、年を取ればなくなります。
それに、医療水準も低い時代です。
幼い子供や若い人だって、ちょっとしたことですぐ命を落としたんだよね。
やがて、そのお母さんは気づきます。
自分だけが大切な人をなくしたのではない。
みんな、それぞれに愛する人を見送り、大きな悲しみを乗り越えながら生きているのだと。
この話で何が言いたいんですかって言うとね。
子供をなくしたお母さんは、それまで感謝が足りなかったよねってことなの。
普通に考えたら、当時、死者が出ていない家なんてあるわけがない。
探しに出るまでもなく、すぐわかることなんです。
ところが、そんなことには気づかず町中の家を訪ねて歩いた。
つまり、そのお母さんは、自分の痛みにばかり目が向いて、他の人のことを気づかい、心を寄せることをしてこなかったんだ。
自分の子供が可愛いのは、当たり前です。
他の家のを子供がなくなった時に、我が子を失ったかのごとく嘆き悲しむのが正しいと言っているわけじゃないの。
自分と人の間に感覚の差があるのは当然で、それはしょうがない。
ただ、ものには限度があるんです。
あまりにもその差が大きいと、さっきのお母さんみたく、自分の身に何かあった時、たちまち不幸になっちゃうんだよ。
人と自分の間に差がありすぎると、自分にちょっとした問題が起きただけで、「自分ははずれくじばかり引く」「うまくいかなくて嫌になる」とかって大騒ぎするの。
その言葉には、感謝がないんです。
あのね、あなたが苦しいわけじゃない。
世の中には、あなたと同じことで涙を流している人は大勢いるし、もっと辛い現実と向き合っている人もいるんだよ。
そういう人の苦しみには少しは目を向けてみなよって。
悟りとは、「差取り」です。
自分と人との間にある差を適度に取り、いい塩梅に保てる人は、よそに不幸があると、自然にその人の心に寄り添ってあげられるんです。
だからこそ、自分や、自分の大切な人が生かされていることに感謝できる。
今こうして生きていられるのは、当たり前ではなく、奇跡なんだって。
そしてこういう人は、自分にも、周りにも、日頃から愛を出して行きられるから、いざ大切な人と死別することになった時に、悲しみや寂しさを乗り越えて受け入れることができるんだ。
斎藤一人さんの話を纏めました。
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