コンクラーベ

斉藤一人さんです

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斎藤一人さん 心や魂は傷つかない

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考え方に傷があれば、傷のついた現象が出てきます。

 


心や魂は傷つかない


よく、「魂が傷ついた」とか、「心が傷ついた」とかという人がいます。

例えば、小学校の30人学級に刃物を持った防寒が入ってきて、3人が怪我をさせられたとします。

そうした事件が起こると、残りの27人の生徒も「心に傷を負った」などと言われます。

その27人に対して、精神的な後遺症を残さないためにもカウンセリングをする必要があるということになります。

これが、戦国時代だったらどうでしょうか?

30人いた子供のうち1割も怪我させられたのに、無事だったとしたら実に運が良かったとなる。

「どんな危機があっても絶対に死なない人間になるよ」と言われたかもしれません。

そういう風に、昔は子供を育てていたのです。

私が何を言いたいのかといえば、よく「心に傷がつく」と言うけれど、本当は心に傷はつきません。

なぜかといえば、私たちは、「神様の分け御霊」を貰っているからです。

神というのは、愛と光の塊なのです。
つまり光なのです。

光が、私たちの生命体の本体なのです。

光は絶対に傷つきません。

何をやっても光に傷を付けることができない。

ここで、映写機を想像してください。

映写機が光源をもって光を発して、フイルムを通り、スクリーンに映像写します。

この映写機から発する光が命であり、魂であると考えてください。

つまり映写機から出る光が、フイルムも通ってスクリーンに映った時に、色々な映像が現れる。

光に傷がついているから、映像に傷が現れるのではありません。

もし映像に傷がついているようならば、フィルムに傷があるからです。

要するに、心や魂ではなく、考え方というフィルムに傷がついているのです。

考え方に傷があれば、傷のついた現象が出てきます。

その現象を見て、「ああ、やっぱり傷がついているんだ」と心に傷があると勘違いして、またさらに心の傷が深くなったりする。

そんな風に思い込んでいる人は多い。

だけど、心は傷つかないのです。

それは、単なる考え方というフイルムなのです。

同じ事に遭遇しても、心に傷がついたという人もいれば、全く傷つかないという人もいるのです。

これこそ、心には傷がつかないという証明みたいなものでしょう。

例えば、小さい頃高い階段から落ちてとても怖い思いをしたけれど、怪我ひとつしなかったとします。

その怖い思いを、高所恐怖症などで、ずっと心の傷として思い込んでいる人がいたとします。

でもある日、

「あんた、運がいいんだよ。

小さい時にそういう経験したでしょ。

でも怪我ひとつしなかったよね。

だからあなた、すごい人に護られているから、凄い得なんだよ」

と言われ、「あっ、そうなんだ」と思った時、その人の考え方があります。

心に負っていたはずの傷など、忘れてしまいます。

あくまで考え方です。心ではないのです。

最近は、「これで傷ついた」「あれで傷をつけられた」と騒いでいる人が多すぎます。

しかし、一昔前の人だったら、そんなことで騒ぎません。

例えば戦時中、となりの防空壕は全滅したけれど、自分の入っていた防空壕は平気だったとか、そういう経験をみんないっぱいしています。

そんな経験をしても、みんな平気で生きてきました。

おばあさんなんかに話を聞くと、同級生が機関銃で撃たれたとか、平気で話します。

でも、そのおばあさんの心に傷などついていません。

心の傷などに構うよりも、戦時中、生き残って良かったと思っています。

ところが、今はちょっとした事件が起こると、すぐ心に傷ついたというような話になってしまいます。

そうではなくて、心は傷つかないのです。

話は飛ぶようですが、私は中学校までしか出ていません。

自分の学歴を気にして、「中学校しか出ていないからダメなんだ。学歴がないからうまくいきそうもない」なんて言っていると、実際にダメなことが起こってきます。

ところが、自分は社会に早く出ることができて得だと思えば、実際に得なことが起こります。

高校、大学に在籍する年数を足せば7年にもあります。

中卒ということは、他人よりも7年も先にスタートすることができるのです。

マラソンだって7年も先に走っていれば、相当な所まで行くでしょう。

要するに、「だめだ、だめだ」と思っていれば、ダメなことが起こる。

「自分は得なんだ」というフイルムに差し替えれば、いいことが起こるのです。



あの世は想い、この世は想いと行動


では、来ないとはなんなのでしょうか?

この問題を考える時、あの世と対比して考えると分かりやすいと思います。

あの世とは想念の世界なのです。

だから、想念するだけで何でも叶うのです。

だけど、この世は想念だけの世界ではありません。

例えば、あなたが綺麗になりたいとします。

それで、「綺麗になりたい」と思う。

あの世ではこれで綺麗になるかもしれませんが、この世ではなれません。

実際にお化粧をしたり、着るものに気を使ったりしないと、綺麗になれない。

ということは、この世は想うだけではなく、行動しなければならないのです。

例えば私は、「ああ、俺ってこの世に生まれてついてるんだ」とか、「平和な時代に生まれてついてるんだ」とか、「早く社会に出てついているんだ」とかと、いつも楽しく前向きな考え方をしています。

そうすると、実際についてる現象が起きる。

チャンスがやってきます。

私の場合に、「幸せな商人になりたいんだ」と思ったのです。

そう思えば、幸せな商人になれるようなチャンスがたくさん来るんです。

そのチャンスが来たときに、ちゃんと自分で行動を起こす。

そうすれば、夢が叶っていくものです。

だからこの地球というところでは、考え方というフイルムを前向きで明るいものに替える。

そうすると夢が叶うチャンスが来る。

それに対して行動する。

それしかないのです。

もちろん、思ってばかりではダメです。

「ご飯が食べたいな」とずっと思っていたって実際に食べなければ、この世ではお腹いっぱいになりません。

白い服を着て、「あの赤い服が欲しいなとずっと思っていたって、勝手に服は赤くなったりしません。

赤い服を着るには、今着ている白い服を赤く染めるか、その赤い服を買うしかないんです。

だけど、「私はダメなんだ、私はダメなんだ」と思っていたら、何のチャンスもやってきません。

「私は駄目だ」というフイルムを、心にがちゃんがちゃん入れていたら、「あなたは駄目だ」という現実がスクリーンの上に映ります。

「私はこうなりたいんだ。こうなれるんだ」と思っていたら、そういうチャンスは必ず来るのです。

そして、そのチャンスを生かすように、次には行動しないといけないのです。

豊臣秀吉だって同じです。

自分の財産なんて、本当に何も持っていなかった。

それで、家を出た。

「やがては天下を取りたい」と、ずっと考えながらも百姓を続けていたら、天下は取れません。

「俺は広い土地を持って百姓になりたい」というのだったら、百姓を一生懸命やっていればいい。

一生懸命になって畑を耕していたら、変な話、土地持ちの旦那に見込まれるとか、庄屋さんの婿になるとか、道は開けます。

肯定的に生きていれば。

でも、天下を取りたいという夢を持つならば、百姓を続けていては駄目です。

サムライにならなければ、一生チャンスはやってきません。

秀吉の場合は、百姓をやめた。

しかし、最初からサムライにはなれません。

最初は、足軽と言って、百姓の中で侍になりたい人の為の予備軍に入るのです。

足軽になれたとしたら、「自分は足軽になれてよかった」と思うこと。

「なんだ、足軽か」と否定的になってもしょうがない。

足軽になれたら、その中でいっぱいチャンスはあります。

その当時、足軽の中で、秀吉みたいになるチャンスは全員にあったはずです。

秀吉は物事を肯定的に捉えて、「自分はやれるんだ」とチャンスを掴んだら足軽大将になれたんです。

足軽大将になれたら、また物事を肯定的に捉えて、心に肯定的なフィルムを入れて行ったら、またチャンスが出てきた。

そして、そのチャンスをきちんと掴んだ時に侍になれたのです。

それで、侍大将になっ、大名になって、天下人になった。

だから、なんの無理もしていない。

手品も使っていないのです。

 

 

斎藤一人さんの話を纏めました。

 

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